第一章 迎えの船
チュン、チュン。
窓の外から、小鳥の鳴き声が聞こえてくる。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の床を明るく照らしていた。
キオは目を開けた。
しばらく天井を眺めてから、ゆっくりと体を起こす。
壁に掛けられた時計は、七時を少し過ぎていた。
ベッドを降り、寝間着のまま部屋を出る。
階段を下りると、台所からパンの焼ける匂いがした。
「おはよう、キオ」
母親が振り返った。
「顔を洗って、歯を磨いてきなさい」
キオは返事をしなかった。
そのまま洗面所へ向かい、蛇口をひねる。
顔を洗い、歯を磨き、タオルで顔を拭く。
いつもと同じ朝だった。
食卓には、焼きたてのパンと目玉焼き、それから温かいスープが並んでいた。
キオは椅子に座り、パンを手に取った。
テレビでは朝のニュースが流れている。
『さあ、いよいよ本日です! 世界中が注目する天空の不夜城への到達計画!』
画面には、大きな飛行船が映っていた。
何人もの人々が船の周囲で作業をしている。
『今回の挑戦者は、冒険家のガルバンさん。これまで三度、不夜城への到達を試みていますが、いずれも失敗に終わっています』
画面が切り替わり、立派な口ひげを生やした男が登場した。
『今度こそ、あの城へ辿り着いてみせます!』
男は力強く拳を握った。
『天空の不夜城は、何百年も前から存在が知られている謎の空中都市です。夜には美しい灯りが見えるものの、昼間は厚い雲に覆われ、その内部を確認することはできません』
画面に、夜空に浮かぶ無数の灯りが映し出された。
雲の隙間から、塔のような建物がいくつも突き出している。
『これまで多くの冒険家や研究者が挑戦してきましたが、いまだ誰一人として城への到達を確認できていません!』
「また挑戦するのねえ」
母親がテレビを見ながら言った。
「今度は行けるのかしら」
キオはパンをかじった。
『出発です! 飛行船が上昇を始めました!』
テレビの中で、大きな船がゆっくりと空へ浮かんでいく。
見物人たちが歓声を上げ、手を振っていた。
「ねえ、キオ」
母親が尋ねた。
「あなたも天空の不夜城に行ってみたい?」
「……別に」
「そうなの? お母さんは一度くらい行ってみたいけどなあ」
「ふうん」
キオはスープを飲んだ。
テレビでは、飛行船が巨大な雲に近づいていた。
『いよいよ雲の中へ入ります! 今回こそ――あっ!』
突然、画面が乱れた。
『映像が……通信が途絶えました!』
しばらくすると、画面はスタジオに戻った。
『現在、飛行船との連絡が取れなくなっています。続報が入り次第お伝えします』
「あらあら。また失敗かしらねえ」
母親は少し残念そうだった。
キオは最後のパンを口に入れた。
「キオ、そろそろ学校に行く支度をしないと」
キオは時計を見た。
いつもより、少し遅い時間だった。
それでも慌てることなく立ち上がり、食器を流しへ運ぶ。
部屋に戻って服を着替え、鞄を持った。
「いってらっしゃい」
玄関で母親が声をかける。
キオは振り返らずに扉を開けた。
外には、いつもと変わらない朝の街が広がっていた。
*
学校までの道には、大きな並木が続いていた。
道端には小さな花が咲き、時折、風に乗って甘い香りが漂ってくる。
「おはよう!」
近所のパン屋のおじさんが声をかけた。
キオは何も言わずに通り過ぎた。
少し先では、同じ学校に通う子供たちが楽しそうに話している。
「昨日の試合、見た?」
「見た見た! 最後すごかったよな!」
「今日の放課後、またみんなでやろうぜ!」
キオはその横を歩いていった。
声をかけられなければ、誰かと話すこともない。
別に友達が嫌いなわけではなかった。
一緒に遊ぶのも、誘われれば遊ぶ。
ただ、自分から誰かを誘おうとは思わなかった。
学校に到着すると、キオは教室に入り、自分の席に座った。
周りでは子供たちが騒いでいる。
昨日見たテレビの話。
好きな遊びの話。
週末に家族で出かけた話。
そして、今朝の天空の不夜城への挑戦の話。
「絶対、今度こそ行けると思う!」
「無理だよ! あそこには魔法がかかってるんだって!」
「でもさ、本当に宝物がいっぱいあるのかな?」
「王様が住んでるって聞いたことある!」
キオは鞄から教科書を取り出した。
机の上に置き、窓の外を見る。
青い空に、白い雲がゆっくりと流れていた。
やがて先生が教室に入ってきた。
「はい、みんな席について」
授業が始まった。
先生が黒板に問題を書く。
「それじゃあ、この問題が分かる人?」
何人もの手が挙がった。
キオはノートに答えを書いていた。
答えは合っている。
けれど、手は挙げなかった。
「はい、ミラ」
指名された女の子が立ち上がり、答えを言った。
「正解!」
先生が笑顔で褒める。
キオはノートの端に鉛筆を置いた。
そして、また窓の外を見た。
雲が一つ、ゆっくりと形を変えている。
休み時間になると、子供たちは一斉に教室を飛び出した。
「キオ! 外で遊ばない?」
同級生の男の子が声をかけてきた。
「今日はいい」
「そっか。じゃあ、またな!」
男の子は友達のところへ走っていった。
キオはトイレに行ったあと、廊下の窓際に立った。
校庭では、子供たちが走り回っている。
ボールを追いかける子。
転んで笑っている子。
木陰で何かを話している子。
みんな楽しそうだった。
キオはしばらく眺めていた。
やがて鐘が鳴る。
教室へ戻った。
それからも、いつもと同じ一日が続いた。
授業を受け、昼食を食べ、午後の授業を受ける。
先生に注意されることもなければ、褒められることもほとんどない。
誰かと喧嘩することもない。
キオは、何もしないわけではなかった。
言われたことはきちんとする。
ただ、それ以上のことをしようとは思わないのだった。
*
学校が終わると、キオはまっすぐ家に帰った。
「おかえり」
母親が台所から顔を出す。
キオは靴を脱ぎ、二階の自分の部屋へ向かった。
鞄を机の横に置き、ベッドに横になる。
天井を眺める。
窓の外では、小鳥が枝から枝へ飛び移っていた。
遠くから子供たちの笑い声が聞こえる。
キオは寝返りを打った。
窓の向こうに、広い空が見えた。
青かった空は、少しずつ橙色に染まっていく。
夕焼けが街の屋根を照らしていた。
しばらくすると、階下から母親の声がした。
「キオー! 夕ご飯よー!」
キオは体を起こした。
階段を下り、食卓につく。
今夜の夕食は、肉と野菜の煮込み料理だった。
「今日、学校どうだった?」
「普通」
「何か面白いことなかった?」
「別に」
「そう」
母親はそれ以上聞かなかった。
キオは料理を口に運ぶ。
柔らかく煮込まれた肉は、美味しかった。
でも、特に感想を言うこともなかった。
食事を終えると風呂に入り、歯を磨いた。
あとは寝るだけだった。
部屋に戻り、寝間着に着替える。
そのときだった。
窓の外が、いつもより明るいことに気づいた。
「……?」
キオは窓へ近づいた。
そしてカーテンを開けた。
夜空の向こうに、大きな光の塊が浮かんでいた。
いや。
光の塊ではなかった。
無数の灯りがともる、巨大な城だった。
高い塔がいくつもそびえ立ち、その下には街らしきものが広がっている。
窓の灯り。
街路の灯り。
提灯のような赤や黄色の光。
それらが、黒い夜空に宝石を散りばめたように輝いていた。
天空の不夜城。
世界中の人々が憧れる、謎の空中都市。
それが今夜は、驚くほど近くに見えた。
「……あ、不夜城だ」
キオは少しだけ目を大きくした。
「こんな近くに来るんだ」
遠くの塔の上で、小さな光が弾けた。
花火のようにも見えた。
けれど、すぐに建物の陰へ隠れてしまった。
キオはしばらく眺めていた。
やがて、カーテンを閉める。
電気を消し、ベッドに入った。
明日は学校だ。
いつものように朝起きて、顔を洗って、パンを食べる。
きっと今日と同じ一日になる。
キオは目を閉じた。
窓の向こうでは、天空の不夜城が静かに輝き続けていた。
*
まぶしい。
キオは目を覚ました。
閉じたまぶたの向こうから、何かの光が差し込んでいる。
朝になったのだろうか。
そう思って時計を見る。
午前二時。
まだ真夜中だった。
「……?」
部屋の中が、妙に明るかった。
机も、本棚も、床に置いた鞄も、温かな黄色い光に照らされている。
窓の外からだった。
キオはベッドを降りた。
カーテンの隙間から、光が何本も差し込んでいる。
街灯だろうか。
でも、こんなに明るいはずがない。
キオはカーテンを開けた。
「……え?」
窓の外に、船が浮かんでいた。
大きな船ではない。
家族が何人か乗れそうな、小さな帆船だった。
木造の船体には金色の装飾が施され、船べりには丸い提灯がいくつも下がっている。
帆は白く、風もないのにゆっくりと揺れていた。
そして、その船は――
空に浮かんでいた。
船底の下には、何もない。
屋根もない。
地面もない。
ただ、夜の街が広がっているだけだった。
キオは窓を開けた。
冷たい夜風が部屋に入り込んできた。
船の上には、一人の男が立っていた。
背が高く、細身の男だった。
紺色の長い上着を着て、大きな帽子をかぶっている。
帽子の横には、白い羽根が一本飾られていた。
男はキオに気づくと、ゆっくり帽子を取った。
「こんばんは」
キオは何も言わなかった。
「キオさん、ですね?」
「……そうだけど」
「よかった。間違っていなくて」
男は嬉しそうに笑った。
そして、胸に手を当てて深くお辞儀をした。
「お迎えにあがりました」
「……迎え?」
「はい」
「誰を?」
「もちろん、あなたをです」
キオは男を見た。
男も、にこにこしながらキオを見ていた。
「どこに?」
キオが尋ねると、男は夜空の向こうを指差した。
その先には、無数の灯りを輝かせる巨大な天空都市があった。
「天空の不夜城でございます」
キオはもう一度、遠くの城を見た。
「……なんで?」
「さあ、それは私にも分かりません」
男は困った様子もなく答えた。
「私はお迎えするのが仕事ですから」
「ふうん」
キオは船に視線を戻した。
「これ、どうやって浮いてるの?」
「おや。それが気になりますか?」
「ちょっとだけ」
「魔法ですよ」
「そう」
男は帽子をかぶり直した。
「さあ、どうぞ。お乗りください」
船の横から、細長い板がゆっくりと伸びてきた。
キオの部屋の窓まで届くと、ぴたりと止まる。
どうやら渡り板らしい。
キオはその板を見下ろした。
かなり高い。
落ちたら大変なことになるだろう。
「落ちない?」
「大丈夫です。これまで落ちた方はいらっしゃいません」
「本当に?」
「ええ。私の知る限りでは」
男は笑っていた。
キオはもう一度、天空の不夜城を見た。
今夜は、ずいぶん近くまで来ている。
窓から眺めるより、実際に行けばもっとよく見えるのかもしれない。
それに、あの船がどうして空に浮かんでいるのかも、少し不思議だった。
「……ちょっとだけなら」
「もちろんですとも!」
男は嬉しそうに両手を広げた。
キオは寝間着のまま窓枠に足をかけた。
「おっと。その格好では夜風が冷たいでしょう」
男が指を鳴らした。
すると船の上に置かれていた小さな箱が、ひとりでに開いた。
中から紺色の上着がふわりと浮かび上がり、キオの前まで飛んでくる。
「こちらをどうぞ」
キオは上着を受け取った。
柔らかく、少し温かかった。
袖を通すと、驚くほど体にぴったりだった。
「……魔法?」
「ええ、魔法です」
男は当たり前のように答えた。
キオは窓の外へ一歩踏み出した。
渡り板は思っていたよりも頑丈で、少しも揺れなかった。
一歩。
もう一歩。
そして、船の甲板に足を下ろした。
「ようこそ、キオさん」
男が再び帽子を取った。
「それでは出発いたしましょう」
船の帆が大きく膨らんだ。
何もしていないのに、船がゆっくり動き始める。
キオは慌てて船べりをつかんだ。
家の窓が、少しずつ遠ざかっていく。
自分の部屋が見えた。
ベッドも、机も、開けたままのカーテンも。
隣の家の屋根を越えた。
その向こうの通りを越えた。
やがて、自分の家が小さくなっていった。
街全体が、足元に広がっている。
「……すごい」
キオは小さくつぶやいた。
男が振り返った。
「何かおっしゃいましたか?」
「……別に」
「そうですか」
男は笑顔のまま、船の舵を握った。
小さな船は、夜空を静かに進んでいく。
遠くには、天空の不夜城。
近づくにつれて、灯りの一つ一つが大きくなっていった。
いくつもの塔。
雲の上に広がる街並み。
空を行き交う小さな光。
そして、風に乗って、かすかに音楽が聞こえてきた。
楽しそうな笛の音。
弦楽器の軽やかな旋律。
遠くで鳴り響く太鼓。
どうやら、あの城ではお祭りをしているらしい。
「今日はお祭りなの?」
キオが尋ねた。
「お祭り?」
「音楽が聞こえるから」
「ああ、なるほど」
男は楽しそうに笑った。
「そうですねえ。お祭りと言えば、お祭りでしょうか」
「……?」
「まあ、行けば分かりますよ」
キオは再び城を見た。
遠くの空に、色とりどりの光が打ち上がった。
赤。
青。
金色。
いくつもの花火が、雲の上で大きく開いた。
その光に照らされて、天空の不夜城の全貌が、一瞬だけ夜空に浮かび上がった。
キオは目を瞬いた。
こんな大きな街が、空に浮かんでいる。
テレビで見たときよりも、ずっと大きかった。
「……へえ」
思わず、そんな声が出た。
男は何も言わず、微笑んでいた。
小さな船は雲の中へと入っていく。
白い霧が周囲を包み、街の灯りが見えなくなった。
それでも音楽だけは、少しずつ大きくなっていった。
キオは船べりから身を乗り出した。
霧の向こうに、何かが見える。
無数の灯り。
大きな門。
そして、その先に広がる賑やかな街。
男が静かに告げた。
「まもなく到着です」
キオは、いつもより少しだけ長く、その景色を見つめていた。
何があるのだろう。
そんなことを考えたのは、いつ以来だっただろうか。
船が雲を抜ける。
目の前いっぱいに、光り輝く街が広がった。
「ようこそ」
男が帽子を胸に当てる。
「天空の不夜城へ。」
第一章 迎えの船 了




