第9話 「世界のルール」
駅前に、短い沈黙が落ちた。
夕暮れの風が、三人の間を通り抜けていく。
神谷律は、ユウを見ていた。
さっきまでの冷たい視線とは違う。
そこには驚きと困惑、そして隠しきれない探究心があった。
「あなたは、何者?」
ユウは学生証を握りしめたまま、肩をすくめる。
「それ、俺も知りたい」
律は答えなかった。
視線を落とす。焦げた学生証。擦れた文字。
世界に残ってはいけないはずの、一枚。
「返して」
「まだ言うのか」
「言う」
「嫌だっていってるだろ」
「そう」
律はそれ以上、力ずくで奪おうとはしなかった。
その態度に、ユウは少しだけ拍子抜けする。
「もう終わりか?」
「今は奪えないと分かった」
「随分あっさりしてるな」
「同じ方法を繰り返す意味がない」
「面倒な奴だな」
「よく言われる」
真顔だった。
リリアが少しだけ目を細める。
「……天然?」
律は首を傾げる。
「何が?」
「いや、いい」
リリアは小さく息を吐いた。
さっきまで敵のように見えていた女は、相変わらず冷たくて近寄りがたい。
けれど、完全に敵意だけで動いているわけではないらしい。
それが余計に分からなかった。
律が言う。
「一つだけ答えて」
「内容による」
「その学生証、どこで見つけた?」
ユウは少し黙った。
空白の中。
名前のない少年。
灰色のホーム。
助けて、と言った声。
それをどこまで話すべきか、判断できない。
「……空白」
短く答えた。
律の瞳がわずかに揺れる。
「空白?」
「ああ。俺たちはそう呼んでる」
リリアが小さく補足する。
「私が勝手に呼んでた」
律は少し考えるように目を伏せた。
「空白……」
「何だよ」
「いい名前」
ユウは眉をひそめる。
「褒めてる?」
「たぶん」
「それ、俺のやつ」
律は構わず続ける。
「私たちは別の呼び方をしている」
「何て?」
「修正領域」
ユウは一瞬、黙った。
「長いな」
「それが正式名称」
「空白でいいだろ」
リリアも頷く。
「私も空白の方が好き」
律は二人を順に見た。
そして、少しだけ真剣に考え込む。
「……確かに」
「納得するんだ」
「分かりやすい名前は大事」
「急に柔軟だな」
「探求に必要だから」
律は真顔で言った。
ユウは思わず苦笑する。
この女は、冷たいのか天然なのか分からない。
ただ一つ確かなのは、嘘をつくタイプではないということだった。
律は学生証へ視線を戻す。
「空白。あなたたちがそう呼ぶ場所は、世界が修正を行った跡」
「修正……」
リリアが呟く。
「さっきも言ってたな。それ何なんだよ」
「世界は時々、矛盾を消す」
律は淡々と言った。
「事故。事件。災害。あるいは、世界の継続に不都合な出来事」
「不都合って何だよ」
「私にも全部は分からない」
「分からないのに言ってるのか」
「分からないから調べてる」
律の声は静かだった。
けれど、その言葉だけははっきりしていた。
「私は、世界の修正を調べている継承者」
「継承者……」
ユウはそれを繰り返す。
「なんだそれ、さっきも俺の足が動かなくなったりあんたは特別な能力でも持ってるってのか」
「近い。でも正確ではない」
律は足元に落ちていた小石を拾い上げる。
それを手のひらに乗せ、ユウたちへ見せた。
「能力は、人が持つ力」
小石をそっと落とす。
普通なら地面へ落ちるはずだった。
けれど、小石は律の手のひらから数センチ下で、ぴたりと止まった。
浮いているのではない。
落ちる途中の状態で、固定されている。
「継承者の力は、世界の機能の一部」
「世界の機能?」
「私の場合は、固定」
律が指先で小石に触れる。
小石は空中に止まったまま、一ミリも動かない。
「落ちている状態。止まっている状態。触れている状態。燃えている状態。割れている状態。そういうものを固定できる」
ユウは小石を見る。
「便利だな」
「便利だけど万能じゃない」
律は小石を摘む。
すると、固定が解けたように、石は彼女の指の中へ収まった。
「対象を理解できなければ固定できない。長時間は保てないし同時に固定できる数も限られる」
リリアが静かに言う。
「でも、ユウは解除した」
律の目がユウへ向く。
「そう」
その声に、わずかな熱が混じる。
「固定は、普通解除できない。少なくとも、継承者同士でも簡単にはできない」
「俺は別に解除しようとしたわけじゃないけど」
「止まるな、と思った、そうでしょ?」
ユウは黙る。
律は見抜いていた。
「……まあ」
律は小石を握りしめる。
「でも、あなたは私の力に別の力をぶつけたわけでもない。そういう感覚は一才なかった」
「じゃあ何だよ」
「…結果を消した」
その言葉に、ユウの表情が止まる。
結果…
昔から、ユウの周りで起きていたこと。
殴られるはずの結果。
落ちるはずの結果。
当たるはずの結果。
そして、固定され続けるはずの結果。
「あなたの力は、否定に近い」
律は言った。
「でも、ただの単なる否定じゃない」
「どういう意味だ」
「分からない」
「またそれかよ」
「分からないものを分かると言う方が危険」
リリアが小さく頷いた。
「そこは正しいと思う」
「味方するのかよ」
「正しいところだけね」
律は少しだけリリアを見る。
「あなたは、空白が見えるのね」
リリアの表情がわずかに硬くなる。
「見える」
「いつから?」
「小さい頃から」
「中には入れる?」
リリアは首を横に振る。
「一人では無理だった。ユウと一緒なら入れた」
律の視線が鋭くなる。
「……それもおかしい」
「何が」
「修正領域……空白の内側には、通常は継承者しか入れないものなの」
ユウは眉をひそめる。
「え、じゃあ俺は継承者なのか?」
律は即答した。
「違う」
「早いな」
「あなたから継承者の反応は感じない」
「反応?」
「継承者同士には、何となく分かるのよ。世界の歪みを持っている人間の気配」
「俺にはない?」
「ない」
律ははっきりと言った。
「でも、空白へ入れる。固定を解除できる。世界に残らないはずの物を持ち出せる」
ユウは学生証を握る手に力を込める。
「だから?」
「だから、分からない」
律は真っ直ぐユウを見る。
「あなたは継承者じゃない。でも継承者より深く、世界の修正に干渉している」
駅前の喧騒が遠くなる。
何も知らなかった日常が、どんどん遠ざかっていく。
リリアが静かに聞いた。
「さっきあなた三年前の駅事故って言ってたけど…」
律は頷く。
「記録上は存在しない」
「でも、あった?」
「あった」
「どうして知ってるの?」
「私たちには、修正前の断片を記録する方法がある」
「記録……」
「完全じゃない。欠けているし、歪んでいる。でも、何かがあったことだけは分かる」
律は学生証を見る。
「三年前、この駅で大きな事故が起きた」
ユウの脳裏に灰色のホームが浮かぶ。
割れたガラス。
焼け焦げた柱。
名前を失った少年。
「事故は修正された。死者も、負傷者も、記録も、周囲の記憶も、すべて整えられた」
「整えられた?」
ユウの声が低くなる。
「消したってことだろ」
律は否定しなかった。
「そうとも言う」
「ふざけんなよ」
リリアがユウを見る。
ユウは学生証を握りしめていた。
指先が白くなるほど強く。
「事故があったなら、誰かがいたんだろ。家族も、友達も、覚えてるはずだった人がいたんだろ。それを全部消して、整えたって言うのかよ」
律は静かに答える。
「そうしないと、世界が壊れる場合がある」
「世界って何だよ」
「私も、それを知りたい」
律の声は揺れなかった。
けれど、冷たくもなかった。
ユウは律を見つめる。
敵ではない。
けれど、味方とも言い切れない。
この女は、きっと少年を助けたいわけではない。
真実を知りたいのだ。
そのためなら、冷たく見える選択もする。
そういう人間なのだと、ユウは思った。
「その学生証、今は持っていてもいい」
「急に?」
「奪えないから」
「正直すぎるだろ」
「それに、あなたが持っている方が私には都合がいいかもしれない」
「やっぱり面倒だな、お前」
「よく言われる」
リリアが少しだけ笑う。
「本当によく言われてそう」
律は首を傾げる。
「言われる」
「認めるんだ」
「事実だから」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、それも長くは続かなかった。
律は真剣な顔でユウを見る。
「明日、もう一度ここに来て」
「何で」
「空白の変化を確認する」
「断る」
「どうして」
「まだ信用してない」
「当然ね」
「当然なら誘うなよ」
「必要だから」
ユウはため息をつく。
リリアが隣で小さく言った。
「私は行く」
「おい」
「知りたい」
リリアは空白を見る。
「私は見えてるのに、何も知らない。それが嫌」
ユウは少し黙る。
その気持ちは分かる。分かってしまう。
律はリリアを見た。
夕暮れが少しずつ夜に変わり始めている。
駅前の明かりが灯り、人の流れが変わる。
けれど三人の前にある空白だけは、相変わらず何もない場所としてそこにあった。
誰も見ない。
誰も気づかない。
でも確かに、そこには世界の傷跡がある。
律は最後に言った。
「結城ユウ」
「何だよ」
「あなたは、継承者じゃない」
「ああ、さっき聞いた」
「でも、世界はあなたを見ている」
ユウの背筋に、冷たいものが走る。
「どういう意味だ」
律は答えない。
ただ、空白を見つめた。
「仮説だけど、、明日分かるかもしれない」
黒いコートの裾が、夜風に揺れた。
「明日、放課後」
「勝手に決めんな」
「来るでしょ」
ユウは答えなかったが、律はそれだけ言って歩き出す。数歩進んだところで、ユウがふと思い出したように声を上げる。
「……待て。」
律が立ち止まる。
「何。」
「一番聞きたいこと忘れてた。」
律は首だけ振り向く。
「何。」
「なんで俺のフルネーム知ってんだ。」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
リリアも「あっ」という顔になる。
「そういえば……」
律は少しだけ考える素振りを見せた。
「調べたから。」
「怖ぇよ!」
リリアが思わず吹き出す。
律は不思議そうに首を傾げる。
「調べるでしょ。」
「普通調べねぇよ!個人情報だろうが」
「私継承者だから」
「継承者って便利な言葉だな、おい。」
律は少しだけ考え、
「便利。」
「認めるのかよ…」
そのまま律は何事もなかったように歩き出す。
ユウはため息をついた。
「……何なんだ、あいつ。」
そして少し歩いて律はまた振り返る。
「あなたは、放っておけない人だから」
それだけ言って、神谷律は人混みの中へ消えていった。
ユウはしばらく、その背中を見ていた。
リリアが横から覗き込む。
「当たってるね」
「何が?」
「放っておけない人」
ユウは少し黙るが、
「あぁ…母性本能くすぐる可愛い男ってことね」
「それは勘違いしすぎ」
ユウは少しだけ笑って学生証を見下ろす。
焦げた縁。
消えた名前。
世界がなかったことにした誰かの証。
そして、空白の奥で待っている人たち。
「明日」
リリアが言う。
「行く?」
ユウは小さく息を吐いた。
答えなんて、最初から決まっていた。
「行く」
その瞬間。
駅前の空白が、ほんの一度だけ揺れた。
まるで、その答えを聞いていたかのように。




