第8話 「神谷 律」
「ありがとう」
その声は、ユウにだけ届いた。
灰色のホームに立つ名前のない少年は、泣きそうな顔で笑っていた。
自分の名前も、家族も、学校も、帰る場所さえ思い出せない。それでも彼は、確かにそこにいた。
そして、その奥には何十人もの人影。
誰も声を出さないし誰も動かない。ただ静かに、こちらを見ている。
「助けて」
少年はそう言った。
「僕じゃない。みんなを」
ユウは拳を握ったまま、霧の奥を見つめていた。
何ができるのか分からない。どうすればいいのかも分からない。けれど、あの声を聞いてしまった以上、知らないふりはできなかった。
「ユウ」
隣でリリアが呼ぶ。
その声が、少し遠く聞こえた。
「戻ろう」
「……ああ」
返事をした瞬間、足元のホームがかすかに揺れた。割れたガラスが音もなく震え、灰色の霧がゆっくりと濃くなっていく。
空白の奥から、何かが近づいてくるような感覚があった。
見えない。だが、分かる。
ここに長くいてはいけない。
ユウはリリアの手を握り直した。
次の瞬間、世界が反転し崩れたホームが剥がれ落ちるように遠ざかり、灰色の空が夕暮れの赤に塗り替わっていく。
音が戻る。
人の声。電車のブレーキ音。改札の電子音。車の走行音。
気づけば二人は、駅前広場に立っていた。
リリアがその場に膝をつく。
「おい、大丈夫か」
ユウは慌てて支えようとした。
リリアは片手を上げて、それを制する。
「大丈夫。少し、足に力が入らないだけ」
「それ大丈夫って言うのか」
「言う」
「言わねぇよ」
リリアは息を整えながら、ゆっくり立ち上がった。
空白の中へ入ったことが、彼女には想像以上に負担だったのだろう。現実の駅前に戻った今も、指先がわずかに震えている。
「無理すんな」
「してない」
「今してる顔だろ」
「顔で決めないで」
「顔に出る方が悪い」
「……うるさい」
いつもの調子で返そうとしているが、声に力がない。
ユウは何か言いかけて、やめた。
リリアも怖かったはずだ。
見えない相手とユウが話しているのを、ただ隣で聞いているしかなかった。
空白の中へ入ったのに、自分には少年も人影も見えなかった。それでも彼女は、最後まで手を離さなかった。
「さっきの」
リリアが言った。
「本当に、たくさんいたの?」
ユウは頷く。
「いた」
「何人くらい」
「分からない。霧の奥までいた。子どもも、大人も、駅員みたいな人も」
リリアは唇を結んだ。
「見えてるのに、見えない。そこにいるって分かってるのに、何もできない。思ってたより、悔しい」
その言葉は、静かだった。
けれどユウには、妙に重く聞こえた。
リリアはただの案内役でも、横にいるだけの人間でもない。自分には見えないものがあることを、悔しいと思える人間だった。
「お前がいたから入れた」
「え?」
「一人だったら、たぶん途中で戻ってた」
「……たぶん?」
「便利だろ」
リリアは少しだけ呆れたようにユウを見る。
「そういうところ」
「何」
「ずるい」
「褒めてる?」
「褒めてない」
けれど、リリアの表情は少しだけ和らいでいた。
ユウは空白を見る。
今はもう、ただの何もない場所に戻っている。人々は変わらず行き交い、誰もそこに目を向けない。ほんの数分前まで、その向こうに名前を失った少年と、消された人々がいたことなど、誰も知らない。
学生証は、ユウの鞄の中にある。
焦げた学生証。
世界から消された少年が、確かに存在していた証拠。
「本格的に調べるしかないな」
ユウが呟く。
「うん」
リリアも頷いた。
「でも、今日はもう帰った方がいい」
「何で」
「顔色悪い」
「俺?」
「うん」
「お前もな」
「私は先輩だから」
「先輩関係あるか?」
「ある」
「どこに」
「気持ち」
「便利だな、先輩」
そんなやり取りをしながら、二人は駅前を離れようとしたその時だった。
「結城ユウ」
背後から声がした。
低くはない。けれど、冷たい声だった。
ユウは足を止める。
リリアも同時に振り返った。
駅前広場の人混みの中に、一人の女が立っていた。
黒いロングコート。
細身の身体。
風に揺れる黒髪のロングウルフ。
切れ長の瞳は、夕暮れの光を受けても少しも柔らかくならない。
年齢は二十歳を少し越えたくらいだろうか。
美しい、というより近寄りがたい。
そこだけ空気の温度が違う。
そんな印象だった。
女はまっすぐユウを見ている。
リリアが一歩前へ出た。
「あなた、誰」
女はリリアを一瞥しただけだった。
「関係ない」
その言い方に、リリアの眉がわずかに動く。
「関係ある」
女は少しだけリリアを見る。
視線に温度がない。
「ない。一般人は下がって」
その一言で、空気が変わった。
リリアの表情が止まる。
ユウも少し眉をひそめた。
「言い方な」
女はユウへ視線を戻す。
「事実を言っただけ」
「そもそも誰だ、お前」
「神谷律 (かみや りつ)」
女は短く名乗った。
それ以上の説明はなかった。
「質問に答えて」
「質問?」
律の視線が、ユウの鞄へ向く。
「あの空間から外に何か持ち出したのは、あなた?」
ユウの身体がわずかに強張った。
その反応だけで十分だったのだろう。
律は小さく息を吐く。
「やっぱり」
「何で知ってる」
「こちらの質問が先」
「答える義理はない」
「ある」
律の声は変わらない。
冷たく、静かで、揺れない。
「それはこの世界に存在してはいけないもの」
ユウは鞄を押さえた。
「何でそんなことが分かる」
「知っているから」
「何を」
「ここで起きた三年前の駅事故」
その言葉に、リリアが反応した。
ユウも息を呑む。
「駅事故…だと?」
律は答えなかった。
ただ、ユウの鞄を見たまま言う。
「返して」
「嫌だ」
「返して」
「嫌だって言ってんだろ」
「それは本来残らないもの」
リリアが小さく呟く。
だがその声は静かだったが、強かった。
「あなたは何を知ってるの」
律は初めて、少しだけリリアを見る。
「あなたには関係ない」
「ある」
「継承者でもない人間が、これ以上踏み込むべきではない」
継承者。
また、新しい単語だった。
ユウはリリアを見る。リリアも分からない顔をしている。律はそれ以上説明する気がないようだった。
「最後に言う」
律は右手を少しだけ上げた。
「あなたが持ち出したものを返して」
「断る」
「そう」
律はまばたきひとつしなかった。
ユウは鞄から布に包んだ学生証を取り出した。
奪わせるつもりはなかった。
だが、それを見た律の瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「それか」
律は一歩近づいた。
「返してもらう」
ユウは学生証を握りしめ、焦げた縁が、指に当たる。そして名前を思い出せない少年の声が蘇る。
――僕、誰だったんだろ。
これだけは、渡せない。
「これは、あいつがいた証拠だ」
律の目が、ほんの一瞬だけ止まった。
「あいつ?」
ユウは答えなかった。
律も、それ以上は聞かなかった。
ただ、ユウが手に持つ学生証だけを見ていた。
まるでそこに、世界の綻びそのものが刻まれているように。
「なら、なおさら返して」
「嫌だ」
「持っているだけで危険」
「危険でも渡さない。返したら、全部なかったことにされる気がする」
律は何も言わなかった。沈黙が落ちる。
駅前を歩く人々は、三人の横を何事もないように通り過ぎていく。誰もこちらを見ない。
まるで、この場所だけが世界から切り離されているようだった。
律は静かに言った。
「なら、回収する」
その一言だけだった。
次の瞬間。
ユウの手の中で、学生証が動かなくなった。
「……っ?」
落ちたわけではない。
浮いたわけでもない。
ただ、そこに固定されていた。
ユウの指が学生証を掴んでいるその状態のまま。
位置も角度も、指先との距離も、何一つ変わらない。
ユウは咄嗟に引いたが動かない。
学生証だけが、その場に縫い付けられたように微動だにしない。紙片一枚程度の重さしかないはずなのに、ビルの柱でも掴んでいるみたいだった。
「何だこれ……」
リリアが息を呑む。
「動かないの?」
「動かない」
ユウは両手で学生証を引く。
学生証そのものが重くなったわけではない。
そこにあるという状態だけが、世界に焼き付けられている。
律は一歩ずつ近づく。
急がない。
走らない。
攻撃もしない。
ただ、当然のように回収しに来る。
「放して」
「放すか」
「放しても、放さなくても同じ」
律の声は静かだった。
「それは、もう動かない」
ユウは歯を食いしばり手の中の学生証を見る。
(動かない。止まっている。いや、違う。止まっているんじゃない。止まっているという結果が、今ここに固定されているのか)
だったら。
「……止まるな」
ユウは小さく呟いた。
命令ではない。
願いでもない。
ただ、その結果を拒む。
学生証が、そこに固定されているという状態。
それが続くことを、否定する。
パキン。
薄いガラスに亀裂が入るような音がした。
次の瞬間、学生証が動いた。
ユウの手の中で、あっけないほど普通に。
律の足が止まった。
初めて。
その無表情に、わずかな亀裂が入る。
「……解除した」
ユウは学生証を胸元に引き寄せる。
「だから渡さないって言ってんだろ」
律は答えない。
学生証を見ている。
いや。
学生証ではない。
それを動かしたユウの手を見ている。
まるで、そこに世界の常識が崩れる瞬間を見たように。
「……ありえない」
律の声は、ほんの少しだけ震えていた。
そして、その視線がゆっくりとユウへ上がる。
冷たいだけだった瞳に、初めて感情が浮かんでいた。
驚き。
困惑。
それから。
隠しきれない、探究心。
「世界が」
律は小さく呟いた。
「間違えた……?」
律はゆっくりと学生証へ歩み寄る。
焦る様子はない。
まるで必ず回収できると分かっているようだった。
「返して。」
「断る。」
「そう。」
律はそれ以上何も言わない。
一歩。
また一歩。
静かな足音だけが駅前に響く。
ユウは学生証を握り直した。
この女には渡せない。
理由は分からない。
でも、本能がそう告げていた。
「来るな。」
律は止まらない。
「危ない。」
「何が。」
「あなたよ。」
ユウは眉をひそめる。
意味が分からない。律は学生証へ手を伸ばした。
「っ!」
ユウは反射的に身体を引く。
その瞬間だった。
踏み出した右足が止まる。
「……?」
動かない。
もう一歩下がろうとしても。
足だけが、まるで地面そのものになったように動かなかった。
「ユウ!」
リリアが叫ぶ。
ユウは足元を見る。
靴は普通に地面へ着いている。
縄もない。何かに掴まれている訳でもない。
なのに動かない。
「固定した。」
律が静かに言う。
「靴と地面。」
「……!」
「今、二つは一つ。」
ユウは思い切り足を引くがビクともしない。
アスファルトを掴んでいるようだった。
「すごい力……」
リリアが思わず息を呑む。
律はユウから目を離さない。
「解除できる?」
試すような口調だった。
「……。」
ユウは律を見る。
この女試してる。俺を。
「面倒な奴だな。」
小さく笑う。
律は首を傾げた。
「褒め言葉?」
「違う。」
「残念。」
ユウは足元へ視線を落とした。
固定。
つまり。
今の状態は学生証の時と同じだ。
止まっている。いや。止められている。
違う。
止まっているという結果だけが残されている。
だったら。
ユウはゆっくり息を吐く。
「止まるな。」
小さく。
本当に小さく。
それだけ呟いた。
パキン。
また、あの音だった。
靴の裏から乾いた音が響く。
次の瞬間。
右足が前へ出る。何事もなかったように。
律の瞳がわずかに見開かれた。
「……二回目。」
律は何も言わない。
ただ、ユウだけを見つめている。
その目は、さっきまでとは違った。
相手を見る目ではない。
未知を見る目だった。
「あなた……。」
律が小さく呟く。
「何者?」
ユウは肩をすくめる。
「それ、俺も知りたい。」




