第7話 「名前のない少年」
灰色の風が、崩れたホームを静かに撫でていた。
風は吹いている。
けれど、音がない。
現実の駅前なら、電車のブレーキ音や人の話し声、改札の電子音が絶えずどこかで鳴っているはずだった。だが、この場所にはそれがない。あるのは、壊れた景色と、止まった時間だけだった。
リリアは言葉を失っていた。
「…」
外でも見えていた景色だった。
崩れたホームに割れたガラス。煤けた柱に灰色の空。
けれど、中に入るとまるで違う。
景色ではなかった。
ここは、場所だった。
誰かが確かにいた場所。何かが起きた場所。
そして、そのすべてが途中で切り取られた場所。
「……空気が、重い」
リリアが小さく言った。
ユウは頷く。
「外から見てたのと違うか?」
「違う」
リリアは足元を見る。
割れた時計が落ちていた。針は五時十二分で止まっている。けれど秒針だけが、震えるように細かく揺れていた。
進むこともできず、戻ることもできない。
まるで、この空白そのものみたいだった。
「ここって、時間止まってるのか?」
「分からない」
「またそれか」
「分からないものは分からないし、なんでもすぐ私に聞くのやめてくれる。」
「正直だな」
「嘘ついても仕方ないし」
リリアはそう言って、壊れたホームの奥へ視線を向けた。
ユウも同じ方向を見る。
するとそこに、少年が立っていた。
茶色い短髪。制服姿。どこかの学校の生徒だろう。
ユウと同じくらいの年齢。
昨日より、少しだけ輪郭がはっきりしている。
少年はユウを見ると、驚いたように瞬きをした。
「また来たんだ」
「約束したからな」
「約束なんてしたっけ」
「してないかもな」
「じゃあ何で来たの」
ユウは少しだけ考えた。
「途中だったから」
少年は不思議そうに首を傾げる。
「何が?」
「お前のこと」
その言葉に、少年の表情がわずかに揺れた。
嬉しそうにも、困ったようにも見える顔だった。
リリアはユウの横顔を見る。
「そこにいるの?」
「ああ」
「どの辺り?」
「目の前。三メートルくらい」
リリアは目を凝らした。
しかし、彼女に見えるのは崩れたホームだけだった。壊れたベンチ、煤けた壁、割れたガラス。そこに人の姿はない。
「見えない」
その声には、悔しさが滲んでいた。
少年はリリアを見る。
「その人、昨日の」
「見えてるのか?」
「うん。でも、話せない」
「リリアにはお前が見えないらしい」
少年は少し寂しそうに笑った。
「そっか」
リリアは一歩前へ出た。
少年のいる場所へ向かって、静かに言う。
「こんにちは」
(こんにちは)
リリアに返事は聞こえない。
けれど、少年は確かにリリアを見ていた。
ユウはそれを伝えようとして、少し迷った。
リリアは見えない相手に話しかけている。それは普通なら滑稽な光景かもしれない。
けれど、この場所では違った。
見えなくても、そこに誰かがいるかもしれない。
聞こえなくても、届いているかもしれない。
リリアはそれを信じようとしていた。
「聞こえてる?」
ユウが少年に聞く。
「聞こえてる」
「返事は?」
「僕の返事は届かない」
ユウはリリアへ言った。
「聞こえてる。でも返事は届かないって」
「そう」
リリアは少しだけ安心したように息を吐く。
「なら、いい」
少年は静かにリリアを見つめた。
「優しい人だね」
「優しい人だって」
ユウが伝えると、リリアは少し眉を寄せた。
「違う」
「違うのか?」
「見えないから、そうするしかないだけ」
「それを優しいって言うんじゃないのか」
「……知らない」
「知らないって便利だな」
「うるさいわね」
ユウは思わず笑った。
少年もつられるように笑う。
空白の中で、ほんの一瞬だけ普通の時間が流れた気がした。
けれど、その時間は長く続かなかった。
ユウは鞄から布に包んだ学生証を取り出した。
少年の笑顔が止まる。
「それ……」
声が震えていた。
ユウは布を開く。
焦げた学生証。
名前欄は削れている。読めるのは、かろうじて浮かんだ一文字だけ。
『瀬』
「これ、お前のだろ」
少年は何も言わない。
ただ、ゆっくり近づいてくる。
足音はない。
それでも、そこにいる気配だけは濃くなる。
少年は学生証へ手を伸ばした。
指先が触れる。
いや、触れなかった。
すり抜けた。
少年は手を止める。
そして、小さく笑った。
「やっぱり」
「触れないのか」
「うん」
「自分のものなのに?」
「自分のものだったもの、かな」
ユウは返す言葉を失った。
少年は学生証を見つめたまま、ぽつりと言う。
「懐かしい」
「思い出したのか」
「少しだけね」
「何を思い出したんだ」
少年は目を閉じた。
「改札を通ったこと」
「ホームで電車を待ってたこと」
「誰かと話してたこと」
「笑ってた気がすること」
言葉は途切れ途切れだった。
まるで水の底から沈んだ記憶を拾い上げているようだった。
「でも、顔が思い出せないんだ」
「誰の?」
「一緒にいた人」
少年は困ったように笑う。
「友達だったのかも」
「家族は?」
少年は首を横に振る。
「分からない」
「学校は?」
「行ってたと思う」
「名前は?」
その問いに、少年は黙った。
長い沈黙だった。
灰色のホームに、何も音がない時間が落ちる。
やがて少年は、学生証の名前欄を見つめたまま言った。
「やっぱり思い出せない」
「自分の名前だぞ」
「うん」
少年は笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
まるで、水の底から沈んだ記憶を拾い上げているようだった。
「でも、思い出せないんだ」
ユウは胸の奥が詰まるのを感じた。
死ぬことよりも怖いことがあるのだと、その時初めて思った。
自分が誰だったのか分からなくなること。
誰かに呼ばれていたはずの名前を失うこと。
自分がいた証拠だけが目の前にあるのに、それが自分のものだと確かめることすらできないこと。
「僕…」
少年は小さく呟く。
「誰だったんだろ」
リリアが静かに聞く。
「何て言ってるの」
ユウは少し迷った。
そのまま伝えるのが、妙に残酷に思えた。
けれど、リリアは目を逸らさなかった。
だから言った。
「名前が分からないって」
「え、自分の?」
「ああ」
リリアは息を呑む。
「家族も、学校も、友達も、はっきり思い出せないらしい」
リリアはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく呟く。
「そんなの……消えるより、つらい」
その言葉は少年には聞こえていなかったが、
けれど、ユウにはその言葉が痛いほど分かった
ユウは学生証を握る手に力を込める。
「なあ」
「何?」
「名前、思い出したら教えろよ」
少年はユウを見る。
「名前?」
「ああ」
「呼べないと不便だろ」
少年は少しだけ笑った。
「不便って」
「大事だろ、名前」
その言葉に、少年は目を伏せた。
「うん」
「思い出せたら、教える」
「約束な」
「うん」
約束。
その言葉が、空白の中で妙にあたたかく響いた。
リリアが二人を見比べる。
彼女には少年の声は聞こえない。
姿もまだほとんど見えない。
それでも今、自分の目の前で何かが結ばれたのだと分かった。
少年は学生証から視線を外し、ホームの奥を見る。
表情が変わった。
柔らかさが消え、代わりに恐怖が滲む。
「お願い」
その声は、さっきまでと違っていた。
ユウは顔を上げる。
「助けて」
リリアには聞こえない。
けれど、空気が変わったことだけは分かった。
ユウは迷わず言う。
「ああ、助けるよ」
その瞬間、少年は強く首を横に振った。
「違う」
「え?」
「僕じゃない」
少年は震える手で、ホームの奥を指差した。
「みんなを」
ユウとリリアは同時に振り返る。
灰色の霧の向こう。
壊れたホームの先。
そこに、人影が立っていた。
一人。
また一人。
さらに一人。
制服姿の少女。スーツを着た男。ランドセルを背負った子ども。杖をついた老人。駅員らしき制服を着た人影。
何十人もいた。
誰も動かない。
誰も喋らない。
リリアには見えていない。
彼女はユウの顔を見る。
「どうしたの」
ユウは答えられなかった。
目の前の光景が、あまりにも静かで、あまりにも重かったから。
空白は、少年一人の場所ではなかった。
ユウは拳をにぎる。
ここには、消された人たちがいる。
名前も、記憶も、存在した証拠も奪われたまま、誰にも見つけられずに残されている。
「ユウ」
リリアの声が、少しだけ強くなる。
「何が見えてるの」
ユウは拳を握った。
「人がいる」
「どこに」
「奥に」
「何人?」
「分からない」
ユウは息を吸う。
「たくさん」
リリアは何も見えないホームの奥を見つめた。
その顔には、悔しさがあった。
怖さもあった。
けれど、疑いはなかった。
「……信じる」
ユウはリリアを見る。
「見えてないのに?」
「見えてない」
リリアは静かに言った。
「でも、あなたは嘘をついてない」
その言葉に、ユウは少しだけ息を詰まらせた。
少年は泣きそうな声で言う。
「お願い」
「みんなを、助けて」
ユウは息を吸った。
怖くないわけがない。
何ができるのかも分からない。
誰を相手にすればいいのかも分からない。
けれど。
助けを求める声を聞いてしまった。
見えてしまった。
なら、もう知らなかったことにはできない。
「分かった」
ユウの声が、静まり返ったホームに落ちた。
「助けるからまってろ」
その瞬間。
灰色の霧の奥で、人影たちがわずかに揺れた。
まるで、その言葉を聞いたように。
少年はユウを見つめていた。
泣きそうな顔で。
けれど、ほんの少しだけ救われたような顔で。
「ありがとう」
その声は、ユウにだけ届いた。




