第6話 「もう一つの放課後」
翌日の昼休み、ユウは机に突っ伏していた。
眠いわけではない。
いや、眠いことは眠い。
ただ、それ以上に頭が働いていなかった。
昨夜からずっと、机の引き出しに入れた学生証のことを考えている。
焦げた縁。
削れた名前。
かろうじて浮かび上がった一文字。
『瀬』
たったそれだけの文字が、妙に頭から離れなかった。
「結城、寝てんのー?」
前の席の友人が振り返る。
「寝てない」
「顔が死んでる」
「いつもだろ」
「否定しろよ」
ユウは顔を上げずに片手だけ振った。
友人は呆れたように笑い、購買の話をしながら教室を出ていく。
教室に残った生徒たちの声が、ぼんやりと耳に入る。
昨日までなら、何でもない昼休みだった。
けれど今は違う。
世界のどこかに、消された人間がいる。
そう思った瞬間、目の前の日常がひどく薄っぺらく見えた。
ユウはスマホを取り出し、検索履歴を開く。
『私立 瀬 学園』
『駅前 事故 三年前』
『消えた学校』
『学生証 瀬』
何度調べても、何も出てこない。
ネットは便利だ。
何でも出てくる。
店のレビューも、知らない誰かの愚痴も、昨日の芸能ニュースも、十年前の炎上記事すら残っている。
なのに、あの少年のいた痕跡だけが、どこにもない。
「……」
ユウは鞄に手を伸ばしかける。
その時だった。
「結城ユウ」
教室の入口から声がした。
聞き覚えのある、静かな声。
顔を上げると、そこにリリアが立っていた。
金髪のボブ。
整った顔立ち。
青みのある瞳。
制服はきっちり着ている。
それだけで、教室の空気が少し変わった。
近くの生徒がちらちら見る。
「誰?」
「三年じゃない?」
「外国人?」
「金髪すご」
小さな声が飛び交う。
ユウは数秒、固まった。
「……え?」
リリアは不思議そうに首を傾げる。
「何」
「いや、何でここにいるんだよ」
「呼びに来た」
「そうじゃなくて」
ユウは教室のプレートを見る。
二年B組。
そしてリリアを見る。
同じ制服。同じ校章。
今さら気づく。
「……お前」
「何」
「同じ学校だったの?」
リリアは本当に不思議そうな顔をした。
「知らなかったの?」
「知らねぇよ」
「昨日、制服見た?」
「普通、初対面の女子の制服じろじろ見ないだろ」
「私は見た」
「観察力高ぇな……」
「同じ学校の制服くらい見たらわかるでしょ」
「あー」
「……」
ユウは頭を抱えた。
昨日からずっと一緒に空白を見ていた相手が、まさか同じ高校の先輩だったとは思わなかった。
「三年」
リリアが言った。
「え?」
「私は三年」
ユウは数秒黙った。
「先輩じゃねぇか」
「そう」
「昨日から普通にタメ口だった」
「そう」
「怒ってる?」
「少し」
「やっぱりか」
「今のでチャラ」
「安いな」
「期間限定」
「セールか」
「たぶん」
ユウは思わず吹き出した。
リリアは少しだけ不満そうにする。
「笑うところ?」
「いや、なんか……お前、思ったより変だな」
「それはあなたでしょ」
リリアは教室の中を少し見てから、声を落とした。
「学生証」
その一言で、ユウの表情も変わる。
「持ってきた?」
「持ってきてない」
リリアの目が細くなる。
「嘘」
「何で分かるんだよ」
「顔、分かりやすいから」
「最悪だな」
ユウは諦めて、鞄の内ポケットから布で包んだ学生証を取り出した。
廊下へ出る。
二人は人気の少ない階段の踊り場まで移動した。
昼休みの校舎は騒がしい。
けれど、ここだけは少し音が薄い。
ユウは布を開くと焦げた学生証が現れる。
リリアは息を呑んだ。
「本当に残ってる」
「消えると思った?」
「思った」
「正直だな」
「空白から持ってきたものが、現実に残る方がおかしい」
「でも残ってる」
「だから困ってるんでしょ」
リリアは学生証をじっと見つめるが名前欄はまだ読めない。
『瀬』
それだけが残っている。
「これ、昨日より濃くなってないか」
ユウが言うと、リリアも小さく頷いた。
「うん。濃くなってる」
「何でだと思う」
「分からない」
「分からないこと多いな」
「あなたもでしょ」
「それはそう(笑)」
二人は同時に黙る。
しばらくして、リリアがぽつりと言った。
「でも、たぶん」
「たぶん?」
「現実に出たから、存在が少し強くなったのかもしれない」
「存在が強くなる?」
「うまく言えない。でも、空白の中にあるものは薄い。外に出たことで、少しだけ濃くなった」
「人の話とは思えないな」
「人かどうかも、まだ分からない」
ユウは学生証を見る。
「人だろ」
リリアはユウを見る。
「どうしてそう思うの」
「話したから」
「それだけ?」
「それで十分だろ」
リリアは少しだけ目を伏せた。
責めるような表情ではなかった。
むしろ、少し眩しいものを見るような顔だった。
「昨日怖いって言ってなかったっけ?」
「怖いだろ、普通」
「あなた、普通じゃないから」
「会ったばかりの相手に言うことか?」
「今日で実は4日目」
「変わらねぇよ」
リリアは少しだけ口元を緩めた。
ユウはそれを見逃さなかった。
「今、笑ったな」
「笑ってない」
「笑った」
「笑ってない」
「嘘下手だな」
リリアは静かに視線を逸らした。
「……少しだけ」
「素直」
「うるさい」
短い沈黙が落ちる。
騒がしい校舎の中で、二人だけが別の場所にいるようだった。
ユウは学生証を包み直す。
「放課後、行く」
「空白に?」
「ああ」
「止めても行く?」
「行く」
「だと思った」
「なら聞くなよ」
「一応」
「一応ねー」
ユウは少し笑った。
「真面目だな」
「よく言われる」
「自覚あるんだ」
「ある」
「そこも強いな」
リリアは首を傾げた。
「それ、褒めてる?」
「たぶんなー」
「たぶんばっかり」
「便利だからな」
リリアは小さく息を吐いた。
それから、まっすぐユウを見る。
「私も行く」
「危ないんじゃなかったのかよ」
「危ないわよ」
「じゃあ来るなよ」
「それでも行く」
「何で」
リリアは少しだけ空を見上げた。
「昨日までは、空白は見えるだけのものだった。」
「でも昨日、あなたはその中に入った。」
「中に人がいた。」
「その人は、あなたと話していた。」
「もう見ないふりはできない。」
ユウは少しだけ黙る。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
リリアは階段の窓から外を見る。
駅の方角だった。
「放課後、校門で」
「待ち合わせ?」
「そう」
「わかったよ。じゃあ今日は一緒にいくか。これデートか?」
リリアが一瞬だけ固まる。
「違う」
「知ってる」
「知ってて言った?」
「まあ」
「性格悪い」
「よく言われる」
「言われるんだ」
「今初めて言われた」
リリアは呆れたようにユウを見る。
けれど、その目は昨日より少し柔らかかった。
放課後。
校門の前には、すでにリリアが立っていた。
夕方の光を受けて、金髪のボブが淡く光っている。
ユウが近づくと、リリアは腕時計を見た。
「遅い」
「五分前だろ」
「私の方が早い」
「それはお前が早いだけだろーが」
相変わらず少しズレている。
二人は駅前へ向かって歩き出した。
「先輩」
「何」
「敬語使った方がいい?」
リリアは横目でユウを見る。
「今さら?」
「一応」
「便利に使わないで」
「厳しいな」
「先輩だから」
「急に先輩感出すなよ」
リリアは少しだけ得意そうに見えた。
それが妙におかしくて、ユウは笑いそうになる。
「何」
「いや、先輩っぽいなと思って」
「先輩だから」
「二回目」
「大事だから」
駅前に近づくにつれ、会話は少しずつ減っていった。
空気が変わる。
昨日までなら気づかなかったかもしれない。
だが今は分かる。
街の音の奥に、別の静けさが混ざっている。
駅前広場。
人々は変わらず行き交っている。
誰も足を止めない。
誰も見ない。
その中で、空白だけがそこにあった。
景色の一部が薄く抜け落ちたような場所。
何もない。
だが、何かがいる。
ユウにはもう、それが分かっていた。
リリアが隣で小さく言う。
「昨日より、濃い」
「何が」
「向こう側」
ユウは空白を見る。
胸の奥がざわつく。
鞄の中の学生証が、熱を持ったような気がした。
「行くぞ」
「うん」
二人は並んで空白の前に立つ。
リリアは深く息を吸った。
今まで何度も見てきた。
けれど、その向こう側へ足を踏み入れようと思ったのは、これが初めてだった。
「……行く。」
リリアが一歩踏み出すその瞬間、
見えない壁に弾かれるように身体が止まった。
「……」
「入れない?」
「たぶん」
「もう一回やる?」
もう一歩。
踏み出そうとする。
だが、進めない。
まるで空間そのものに拒まれているようだった。
次の瞬間、身体がわずかに弾かれた。
「……っ」
「今、完全にぶつかったな」
「ぶつかってない」
「いや、ぶつかった」
「試しただけ」
「何を?」
「入れるかどうか」
「ぶつかって確認するタイプなのか」
「うるさい」
リリアは少し悔しそうに空白を見つめる。
ユウは苦笑し、手を差し出した。
「掴め」
リリアはその手を見る。
「え?」
「一人で無理なら、俺となら入れるかもしれない」
「根拠は?」
「ない」
「最低」
「でも試すんだろ」
リリアは少しだけ迷った。
それから、ユウの手を取る。
細い指が、ユウの手を掴む。
その瞬間、空白が静かに揺れた。
ザッ――
頭の奥でノイズが走る。
駅前の喧騒が遠ざかる。
夕方の光が灰色へ変わっていく。
リリアの手に力が入った。
ユウは握り返す。
「離すなよ」
「そっちこそ」
「俺は慣れてる」
「二回目で?」
「今日で三回目だ」
「頼りない」
「正直だな」
次の瞬間。
二人は崩れたホームの上に立っていた。




