第5話 「消された少年」
駅前を離れても、ユウは何度も振り返った。もう空白は見えない。人混みの奥に紛れて、ただの何もない場所に戻っている。
だが、あそこにはいた。
崩れたホームの奥に立つ少年。灰色の景色。無数の人影。そして、亀裂の奥で動いた黒い何か。
全部が幻だったとは思えなかった。
「やっと見えるようになったんだ」
あの声だけが、やけにはっきり残っている。
――翌日の放課後
ユウはまた駅前にいた。
来るつもりはなかった。
少なくとも朝まではそう思っていた。
けれど、授業を受けていても、友人と話していても、弁当を食べていても、意識のどこかがずっと駅前に引っ張られていた。
まるで、胸の奥に細い糸を結ばれているみたいだった。
駅前広場は昨日と同じだった。
改札へ向かう人々。電車の音。夕方の光。誰も何も気づいていない。
ユウは空白の前で足を止める。
「……いるんだろ」
返事はない。
当然だ。
ここは現実だ。人もいる。音もある。世界は正常に動いている。
それでもユウには、分かってしまう。
この景色の奥に、もう一つの景色が重なっていることを。
一歩、近づく。
ザッ――
頭の奥でノイズが走った。昨日よりも短い。だが、深い。
駅前の喧騒が一瞬だけ遠のき、視界の端から色が抜け落ちる。
夕暮れの街が薄く剥がれ、その下から灰色の駅が滲み出した。
割れたホーム。
煤けた壁。
止まった時計。
そして、少年。
彼は昨日と同じ場所に立っていた。
ユウはゆっくりと空白の中へ踏み込む。
音が消える。
人の声も、車の音も、電車のブレーキ音も、全部遠ざかっていく。
気づけばユウは、崩れたホームの上に立っていた。
「また来たんだ」
少年が言った。
責めるような声ではなかった。
どこか諦めたような、けれど少しだけ嬉しそうな声だった。
「来たらまずかったか」
「たぶん」
「たぶん?」
「僕にも分からない」
ユウは眉をひそめる。
「お前、ここにいるんだろ。分からないのかよ」
少年は小さく笑った。
「ここにいるから、分からないんだよ」
意味は分からなかった。
だが、不思議とふざけているようには見えない。
ユウは周囲を見回す。
駅は酷く壊れていた。
だが、完全に崩れているわけではない。
壊れたまま、そこで止まっている。
火事の跡のような黒い煤。割れた窓。
壁に残る焦げ跡。床に転がった鞄。折れた傘。
すべてが途中で止まっている。
終わった後ではない。
終わる直前で凍りついたような場所だった。
「ここは何なんだ」
ユウが聞く。
少年は少しだけ俯いた。
「忘れられた場所」
「忘れられた?」
「ううん」
少年は首を横に振る。
「忘れさせられた場所」
その言葉に、ユウは黙った。
『忘れさせられた。』
それは、ただの比喩には聞こえなかった。
「じゃあ、お前は?」
少年は答えない。
「お前も、忘れさせられたのか」
ホームに沈黙が落ちる。
少年はユウを見た。
その目に、昨日までの曖昧さはなかった。
「僕は、消された」
その一言は、灰色の空気の中に静かに落ちた。
ユウは一瞬、言葉の意味を掴めなかった。
死んだ、ではない。
いなくなった、でもない。
消された。
「誰にだよ」
「分からない」
「なんで」
「それも、分からない」
「お前分からないことばっかりだな」
「うん」
少年は困ったように笑った。
「でも、ひとつだけ分かる」
「何が」
「僕は、もう外にはいない」
風もないのに、ホームに落ちていた紙片が揺れた。
ユウはそれを拾う。
古い学生証だった。
端が焦げている。写真の部分は黒く潰れていて、顔は見えない。名前の欄も擦れて読めない。ただ、学校名らしき文字だけがかろうじて残っていた。
『私立――学園』
途中が削れている。
「これ、お前のか」
少年は学生証を見つめた。
だが、手を伸ばさない。
「触れないんだ」
「自分の物なのに?」
「自分の物だったもの、かな」
ユウは学生証を見る。
軽い。ただのプラスチックの板。
なのに、妙に重かった。
「持っていけるかもしれない」
少年が言った。
ユウは顔を上げる。
「現実に?」
少年は頷かない。ただ、学生証を見つめたままだった。
「もしそれが外に出られたら、僕がいた証拠になるかもしれない」
ユウは学生証を握る手に力を込めた。
「ふーん、じゃあ持っていってやろうか」
ユウがほほ笑んだ、その瞬間だった。
ホーム全体が小さく軋んだ。
パキッ。
足元に細い亀裂が走る。
ユウは身構える。
少年の表情が変わった。
「だめだ」
「え、」
「それを持っていこうとすると、気づかれる」
「気づかれるって誰に」
少年は答えなかった。
代わりに、灰色の空を見上げる。
ユウもつられて見上げる。
空の一部が、黒く沈んでいた。
昨日見た、あの黒い何か。
それが遠くからこちらを見ている気がした。
「戻って」
少年が言った。
「今すぐ」
「でも、これ」
「持っていって」
「は?」
「でも、今は戻って」
矛盾した言葉だった。
だが、その声は震えていた。
少年は怖がっている。
黒い何かを。
いや、黒い何かに見つかることを。
「ったく、指示がおおいな」
ユウは学生証を握ったまま、一歩後ろへ下がる。
その瞬間、現実の音が戻ってきた。
電車の音。
人の声。
夕方の風。
灰色のホームが剥がれ、駅前の景色が重なる。
―――
ユウは現実へ戻っていた。
そして手の中には、焦げた学生証が残っている。
「あ……持ってこれた」
思わず呟いた。
「何を?」
横から声がした。
リリアだった。
「お前、またいるのか(笑)」
「……来ない方がいいって言ったよね」
「言われたっけな」
「じゃあ何で来たの」
「それ、お前に言われたくないんだけど」
「?」
「お前も来てるじゃん」
リリアは少し黙る。
「私は確認」
「俺も確認」
「違う」
「何が」
「私は前から来てる」
お互い一歩も引かないが、ユウは苦笑する。
「じゃあ俺が来る時間まで待ってたの?」
リリアは一瞬固まる。
「違う」
「それにしてはタイミング良すぎだろ」
「偶然」
「毎回?」
「……」
「ストーカーかよ」
リリアは少し眉をひそめる。
「違うって」
「じゃあ何」
少しだけ間が空く。
リリアは空白から目を離さないまま、小さく言う。
「…心配だっただけ」
少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。
ユウは少し驚いた。
昨日会ったばかりなのに。
そんなふうに言われるとは思っていなかった。
ユウは一瞬黙る。その空気が少し気まずくなって、
「……そっか、ありがとな」
リリアは照れ隠しのように話題を変える。
「それより何を持ってこれたの?」
「ああ、これだよ。」
ユウはそういって学生証を見せた。
リリアの表情が変わった。
彼女は学生証を見て、次に空白を見た。
「これ、どこで拾ったわけ」
「中」
「え、中?」
「あの空白の中だよ」
リリアはすぐには返事をしなかった。
信じられないものを見るような目で、学生証を見つめている。
「……そんなの、持ってこられるの」
「持ってこれたな」
「今まで、ああいう空白はいくつも見てきたけどさ、中に入ったり、物を持って帰ってきたり…そんなことしてたのあなたが初めて。あなたってやっぱり普通じゃないわね。」
「おれはこの数日普通じゃないことばっかりだよ。三日連続で初対面のやつと同じ場所でしゃべってるし…」
ユウがそう言うと、リリアは苦笑いをするが否定しなかった。
そしてリリアが学生証へ目を向けると。
「その文字、さっきまで見えなかったのに」
ユウは手元を見る。
確かに、先ほどよりも文字が浮かび上がっている気がした。
まるで、現実に出たことで、存在が少しだけ濃くなったように。
その時、空白が揺れた。
ほんの一瞬。
崩れたホームが重なる。
少年が立って、ユウを見ていた。
そして、口を動かした。
今度は、声が聞こえなかったのにユウにはなぜか分かった。
――見つけて。
次の瞬間、景色は消える。
ユウは学生証を握りしめた。
リリアが不安げに言う。
「ユウ、それは持っていない方がいい気がする」
「でも、あいつがいた証拠だ」
「あいつって中にいた人のことだよね。でも証拠があるってことは…」
リリアは言葉を切った。
「何だよ」
「それを消したい何かにも、見つかるってことだと思う」
ユウは空白を見る。
何もない。
何もないはずの場所。
けれど、今は確かに感じる。
誰かがそこにいる。
誰かが、自分に何かを託した。
そして同時に。
その何かを許さないものが、こちらを見ている。
ユウは学生証をポケットにしまった。
「確かにな。お前頭いいよな。でも俺はそれでも調べる」
リリアは呆れたようにため息をつく。
「どうして」
「やっぱり、そう言うと思った。」
「止めるか?」
「止める。」
「でも止まらない。」
「……うん。」
「分かってるなら聞くなよ。」
「一応。」
「一応?」
「言わないと後悔する気がするから。」
ユウは少し笑った。
「真面目だな。」
「よく言われる。」
「自覚あるんだ。」
「ある。」
「意外。」
「失礼。」
少しだけ沈黙が流れる。
リリアは空白を見つめたまま、小さく言った。
「怖くないの?」
「怖い。」
即答だった。
リリアは少し驚いたようにユウを見る。
「怖いけど。」
ユウはポケットの中の学生証を握る。
「怖いからって、見なかったことにはできない。」
「……。」
「もし本当に誰かがいたなら。」
「助けたい?」
「助けたいとかじゃない。」
ユウは少し考える。
理由はいくらでも言える。
気になるから。
見えてしまったから。
放っておけないから。
けれど、一番近い答えは違った。
「消されたって言ってたんだ」
「え?」
「あいつ、自分のことをそう言った」
ユウは空白を見る。
「死んだんじゃない。消されたって」
リリアは何も言えなかった。
ユウは続ける。
「だったら、本当にいなかったことにしていいのかよ」
リリアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく言う。
「あなたって。」
「ん?」
「変。」
「褒めてる?」
「褒めてない。」
「即答かよ。」
「でも。」
リリアは少しだけ目を細める。
「嫌いじゃない。」
ユウは思わず笑った。
「それ、褒めてるだろ。」
「……。」
夕方の駅前で、人々は変わらず歩いている。
誰も知らない。
誰も覚えていない。
このすぐ隣に、消された誰かの痕跡が残っていることを。
その奥に、消された少年がいる。
そして、その少年が残した学生証が、現実に存在している。
その事実だけが、世界の正常さを静かに壊していた。
その夜。
ユウは学生証の学校名を検索した。
だが、何も出てこなかった。
学校も。
生徒も。
事件も。
事故も。
何ひとつ。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
しかし、机の上には焦げた学生証がある。
そこに刻まれた一文字だけが、現実に残っている。
『瀬』
ユウは画面を閉じた。
そして、初めて思った。
あの少年は幻ではない。
この世界が、彼を消したのだ。




