第4話 「呼ぶ声」
――翌日。
数学の授業。
翌日の教室は、昨日と何一つ変わらないはずだった。
教師が黒板に数式を書いている。
教室にはチョークの音。
教科書をめくる音。
窓の外では運動部の掛け声が聞こえる。
何もかもがいつも通りで、昨日までと同じ退屈な午後だった。
それなのに、ユウには少しだけ違って見えた。
黒板に書かれた文字が、一瞬だけ歪む。
「……」
瞬きをすると、もう戻っている。
気のせいだ。そう思おうとした。だが、そう思えば思うほど、胸の奥に残る違和感は消えなかった。
昨日、駅前で見た空白。ひび割れた世界。金髪の少女――リリア。そして、彼女が最後に言った言葉。
『空白に近づきすぎると、帰れなくなる気がする』
『空白』。
『ひび割れ』。
そして。
「しばらくここには来ない方がいい」
金髪の少女――リリアの言葉。
馬鹿げている。
そう思うべきだった。昨日会ったばかりの少女が言った、根拠もない忠告だ。気にする必要なんてない。いつも通り授業を受けて、いつも通り帰ればいい。
けれど、ユウは知っていた。
自分の中にあるこの感覚は、無視しても消えないことを。
「結城」
教師に名前を呼ばれる。
「あ……はい」
「次、読んでくれ」
ユウは立ち上がり、教科書へ視線を落とした、その時だった。
文字が揺れる。
ほんの一瞬。
黒い文字の隙間から灰色の景色が覗いた。
崩れたホーム。
割れたガラス。
誰もいない駅。
瞬きをすると元に戻る。
「結城?」
「あ……すみません」
教室のどこかで小さな笑い声が起きる。
ユウは適当に一文を読み、席に座った。
その後の授業はほとんど頭に入らなかった。
授業が終わり、友達に話しかけられ笑って返事をする。
いつもと変わらない光景。
同じような生活。
コンビニへ寄ってパンを買う。
そう、これも全部いつも通りだ。
なのに、胸の奥だけが落ち着かなかない。
(帰ればいい、今日はもう忘れよう。)
そう思う。
それでも、足は自然と駅前へ向かっていた。
昨日と同じ道。昨日と同じ夕方。昨日と同じ人の流れ。
ただ、昨日と違うのは、ユウ自身がそこへ向かっている理由を分かっていることだった。
確かめたい。
あの空白が何なのか。
あのひび割れが何だったのか。
そして、自分が何をしたのか。
駅前広場は、相変わらず人で溢れていた。
改札へ急ぐ会社員。待ち合わせをしている学生。スマホを見ながら歩く人。
電車の到着を知らせるアナウンス。夕方の街は忙しなく動いている。
その中で、空白だけが静かだった。
人々は普通に通り過ぎている。避けているわけではない。気付いていないだけだ。けれどユウには、そこだけが景色から薄く切り抜かれているように見えた。
何もない。
何もないはずなのに、何かが欠けている。
ユウは足を止める。
「……まただ」
胸の奥がざわつく。
昨日よりも、はっきり分かる。あそこには何かがある。
いや、正確には、何かがあった。
その跡だけが、世界に貼り付いたまま残っている。
ユウは一歩近づいた。
ザッ――
頭の奥でノイズが走った。
視界が揺れる。
駅前の景色がぶれる。
夕暮れの光が滲み、行き交う人々の輪郭がぼやける。
次の瞬間、世界が二重になった。
現在の駅前。その向こう側に、崩れた駅が重なっている。
割れたホーム。焼け焦げた柱。砕けたガラス。灰色の空。
昨日一瞬だけ見えた景色が、今度は消えない。
ユウは息を呑んだ。
人々は変わらず歩いている。誰も気付かない。
笑い声も、アナウンスも、足音も聞こえている。
なのに、その奥にある崩れた駅だけが、別の時間から滲み出している。
現実の上に、死んだ景色が重なっていた。
「……なんだよ、これ」
声が掠れる。
その時、崩れたホームの奥で何かが動いた。
ユウは目を凝らす。
そこに、一人の少年が立っていた。
制服姿。
自分と同じくらいの年齢。遠くて顔ははっきり見えない。
それでも、なぜか分かった。
少年は逃げない。驚きもしない。
ただ、ユウを見ていた。
まるで、ずっと待っていたみたいに。
ユウはゆっくりと足を踏み出した。
その瞬間、駅前の音が遠ざかった。
アナウンスが薄れ、人の声が消える。
車の音も、足音も、風の音さえも、何かに吸い込まれるように遠のいていく。
気付けば、ユウは崩れたホームの上に立っていた。
振り返ると、そこには駅前がある。
だが、遠い。
ガラス越しに見ているような、手を伸ばしても届かない景色。
さっきまで自分がいたはずの夕暮れの街が、ひどく曖昧に見えた。
「……中、入った、のか」
自分の声だけが妙にはっきり響いた。
少年はホームの奥に立ったまま、静かにこちらを見ている。
ユウは一歩ずつ近づく。
焼け焦げたベンチに途中で千切れた広告。
駅名標は黒く煤け、文字の一部が削れて読めない。
ここは現実なのか。
それとも、起きるはずだった未来なのかそれとも過去か。
分からない。
ただ、確かなことが一つだけあった。
ここは、普通の場所ではない。
「お前、誰だ」
ユウが尋ねる。
少年はすぐには答えなかった。
代わりに、少しだけ笑った。
寂しそうな笑みだった。
「やっと」
声は小さかった。
だが、はっきり聞こえた。
「見えるようになったんだ」
ユウは眉をひそめる。
「俺を知ってるのか」
少年は答えない。
「ここは何なんだ」
それにも答えない。
沈黙が落ちる。
不思議と苛立ちはなかった。
少年の態度が曖昧なのに、嘘をついている感じがしなかったからだ。
むしろ、言いたくても言えないように見えた。
「お前、ここから出られないのか」
そう聞いた瞬間、少年の表情がわずかに変わった。
ほんの一瞬。
だがユウは見逃さなかった。
「……図星か?やっぱり」
ユウが近づこうとした、その時だった。
少年が首を横に振った。
「まだ、来ちゃ駄目だ」
「は?」
「今はまだ、近づかない方がいい」
その言葉は、リリアの言葉に似ていた。
ユウの足が止まる。
「みんな同じこと言うんだな」
「みんな?」
「昨日会った奴も、近づくなって言ってた」
少年は少しだけ目を細めた。
「金色の髪の子?」
ユウの背筋に冷たいものが走る。
「お前、見えてたのか」
少年は答えない。
その代わり、ホームの奥へ視線を向けた。
ユウもつられて見る。
最初は何もなかった。
だが、灰色の景色の奥に、少しずつ影が浮かび上がる。
一人。
また一人。
さらに一人。
人影が並んでいた。
顔は見えない。表情も分からない。ただ、そこにいる。動かず、喋らず、まるで誰かに忘れられたまま置き去りにされたように。
全員がユウを見ていた。
「……何だよ、あれ」
少年は答えない。
けれど、その横顔は苦しそうだった。
ユウは無意識に拳を握る。
何かが引っ掛かる。
見たことがないはずの景色。
知らないはずの人影。
それなのに胸の奥が痛む。
まるで、失くしたものを目の前にしているみたいだった。
その時。
パキッ。
小さな音がした。
ホームの床に、細い亀裂が走る。ユウは反射的に身構える。
昨日と同じだ。
世界が割れる前の音。
少年の顔色が変わる。
「戻って」
「何が起きるんだよ?」
「ここに長くいると、向こう側に気付かれる」
「向こう側?」
少年は答えなかった。
いや、答えられなかった。
亀裂が広がる。
パキ、パキ、と乾いた音が連続する。
灰色の空がわずかに歪み、崩れたホームの奥が暗く沈んでいく。
その闇の向こうで、何かが動いた気がした。
ユウは息を呑む。
見えてはいけないものが、こちらを見ようとしている。
そう感じた。
「戻って!」
少年が初めて声を荒げた。
同時に、現実の方から声がした。
「ユウ!」
リリアの声だった。
景色が揺れる。
崩れたホームが遠ざかる。
灰色の空が割れ、駅前の喧騒が一気に戻ってくる。
次の瞬間、ユウは駅前広場に立っていた。
肩で息をしている。
目の前にはリリアがいた。
彼女も息を切らしている。
走ってきたのだろう。金色の髪が乱れ、昨日の静かな表情は崩れていた。
「何してるの」
息がきれて、声が震えていた。
そして怒っているようにも、怯えているようにも聞こえた。
ユウは空白を見る。
そこにはもう、崩れたホームも少年もいない。
いつもの駅前。
いつもの空白。
何もない場所。
「今、いたんだ」
「何が」
「人が」
リリアの表情が固まる。
「……見えたの?」
ユウは頷く。
「あぁ、話した」
リリアの顔から血の気が引いた。
「え、話した?」
「ああ」
リリアは何かを言おうとして、言葉を失った。
その沈黙が、ユウには何より不気味だった。
「お前には見えてなかったのか」
リリアはすぐには答えない。
やがて、小さく首を横に振った。
「なんとなく、ぼんやりと景色が見えるだけで、」
ユウは空白を見る。
何もない。
けれど、もう何もないとは思えなかった。
あの場所にはいる。
少年が。
そして、その奥にいた無数の人影が。
「……やっと見えるようになったって言ってた」
リリアが目を伏せる。
「誰が?」
「さっきの少年」
その言葉を聞いた瞬間、空白が一度だけ揺れた。
ほんの一瞬。
リリアにはぼんやりと、ユウにははっきりと見えた。
崩れたホームの奥に制服姿の少年が立っている。
彼は何も言わない。
ただ、ユウを見ていた。
次の瞬間、景色は消える。
リリアは唇を噛んだ。
「もう、ここには来ない方がいい」
「それは昨日も聞いたけど」
「今度は本当に」
「理由は?」
リリアは答えられなかった。
ユウは苦笑する。
「分からない、か」
「……うん」
それでも、リリアの声は真剣だった。
ユウはもう一度だけ空白を見た。
さっきまでそこにあった崩れた駅。
灰色の空。少年の声。全部が幻だったとは思えない。
そして、亀裂の奥で動いた黒い何か。
あれだけは、思い出すだけで背筋が冷える。
「なあ」
ユウは言った。
「俺が見たものって、何なんだ」
リリアは長い沈黙のあと、静かに答えた。
「私にも分からない」
その答えは頼りなかった。
けれど、嘘ではなかった。
ユウはその時、初めて理解した。
リリアも知っている側ではない。
ただ、自分より少しだけ長く、この違和感を見続けてきただけなのだ。
駅前の喧騒が戻っている。
人々は相変わらず歩いている。
誰も気付かない。
誰も知らない。
そのすぐ隣に、崩れた世界が重なっていることを。
そして、その中で誰かが自分を待っていることを。
ユウはまだ知らなかった。
その少年へ手を伸ばすことが、やがて継承者との初めての戦いに繋がることを。
そして、自分の力がただの偶然では済まされないものだと、思い知らされることを。
ただ今は、空白の奥から聞こえた声だけが、いつまでも耳の奥に残っていた。
――やっと、見えるようになったんだ。




