第3話 「見えてはいけないもの」
亀裂は消えていた。
まるで最初から存在しなかったように。
駅前にはいつもの喧騒が戻っている。
改札へ向かう会社員。
楽しそうに話す学生たち。
流れるアナウンス。
誰も足を止めない。
誰も空白を見ない。
何も起きなかった。
世界はそう判断したらしい。
だが。
「……ありえない」
リリアは小さく呟く。
視線の先には、空白の前に立つ少年。
黒髪。
少し長めの前髪。
どこにでもいそうな高校生。
なのに。
リリアの目には見えていた。
空白の揺らぎが。
世界の継ぎ目が。
ひび割れた空白が動きを止めている。
まるで。
息を潜めたみたいに。
(空白が……反応してる)
リリアは幼い頃から「空白」を見てきた。
誰もいないはずの公園に重なる古い景色。
取り壊された建物の跡に見える知らない建物。
道路の上に一瞬だけ現れる別の風景。
理由は知らない。
ただ見える。
昔からそうだった。
今まで空白を見てもあまり気にしていなかった。
見えても見ないふりをしたこともあったし、関わらなかったことの方が多い。
だが。
今日の空白は違う。
初めてだった。
空白が誰かに反応したのは。
「なに?」
突然声を掛けられる。
リリアは肩を揺らした。
少年がこちらを見ている。
「え?」
「さっきから見てるだろ」
「見てない」
「見てた」
「見てない」
「絶対見てた」
即答だった。
リリアは少しだけ視線を逸らす。
嘘は得意じゃない。
「君さ」
気付けばリリアは聞いていた。
「ん?」
「今の、見えてたの?」
少年は少し考える。
「今のって?」
「あなたの目の前のひび割れ。」
「ああ、見えてた。」
あっさり頷いた。
リリアの心臓が大きく脈打つ。
本当に見えていた。
自分以外にも、空白が見える人間がいる。
それだけでも驚きなのに。
「最初から?」
「最初から」
「……そう」
言葉が続かない。
「何なんだ、あれ」
今度は空白を見ながら少年が聞いてくる。
リリアは少し迷うが答えられない。
なぜなら、自分も知らないから。
「く、空白」
気付けば口にしていた。
「空白?」
「私が勝手に呼んでるだけ」
「何なんだよ」
「分からない」
「分からないのかよ」
「分からない。昔から見えている。それだけ。」
本当のことだった。
少年は少し笑った。
「なんだそれ」
「私もそう思う」
「じゃあ俺と同じだな。」
同じ。
その言葉にリリアは少しだけ目を伏せた。
同じ、だなんて言われたことはこれまで一度もなかった。
「あなた名前は」
気付けば聞いていた。
「ユウ」
「それだけ?」
「それだけ」
「名字は?」
「なんで?」
「確認」
「初対面で?」
「うん、確認」
「変なやつ」
面識のない人間からの唐突な質問の意味が分からない。それでも。
「結城」
「結城ユウ」
リリアはその名前を心の中で繰り返した。
忘れないように。
そして、リリアは小さく繰り返した。
「私はリリア」
「リリア?」
今度はユウが繰り返す。
「珍しい名前だな」
「よく言われる」
その時だった。
リリアの視界が再び揺れる。
「……っ」
一瞬だけ。
景色が重なった。
崩れたホーム。
割れたガラス。
灰色の空。
見慣れた空白の景色。
だが。
今日は違う。
その奥で。
誰かが立っていた気がした。
人影………。
見間違いかもしれない。
気のせいかもしれない。
それでもその人影は自分ではなくユウを見ていたような気がした。
「……」
なぜだろう。
初めてだった、空白を見て不安になったのは。
これまで、ただの景色だったから。
ただの違和感だったから。
なのに、今は違う。
本能がそう告げていた。
「しばらくここには来ない方がいいよ」
ユウは眉をひそめる。
「なんで」
「分からない」
本音だった。
「でも」
空白を見る。
そして。
「嫌な感じがする」
ユウは苦笑した。
「勘か?」
「勘」
リリアは頷く。
だが冗談ではない。
本気だった。
「昔から思ってる」
「何を?」
「空白に近づきすぎると、帰れなくなる気がする」
ユウは少しだけ黙る。
夕方の風が吹く。
人々は変わらず行き交う。
誰も空白を見ない。
誰も気付かない。
ただ、リリアだけは確信していた。
(今日、何かが変わった。)
「なんとなく分かったよ。忠告くらいは聞いとく。じゃあな」
ひらりと手を上げ、人混みの中へ歩いていく。
リリアはその背中を見送ることしかできなかった。
リリアは何も言えない。
引き止める理由がない。
説明できることもない。
ただ胸の奥の違和感だけが消えなかった。
ユウの背中が人混みに紛れていく。
その時だった。
空白が、もう一度だけ揺れた。
ほんの一瞬。
まるで水面へ石を落としたように。
波紋が広がる。
リリアは息を止める。
まただ。
今日だけで二回目。
今まで一度もなかったことが、同じ日に二度も起きている。
その理由は、一つしか思い当たらなかった。
結城ユウ。
彼が現れてからだ。
「……何なの」
返事はない。
空白は静かだった。
そこには誰もいない。
何も見えない。
何も聞こえない。
けれど。
何かがいる。
そんな気配だけが、消えなかった。
リリアはゆっくりとユウが歩いていった方向を見る。
人混みに紛れ、その姿はもう見えない。
それでも胸騒ぎだけが残る。
今日、この世界で何かが変わった。
まだ誰も気付いていない。
けれど確かに。
何かが、動き始めてしまった。




