第2話 「世界のひび割れ」
人は殴られれば痛い。
落ちれば怪我をする。
投げた物は地面へ落ちる。
それが、この世界の当たり前だ。
――でも。
結城ユウの周りでは、その当たり前が、時々起こらない。
殴られそうになった瞬間、相手の拳が止まる。
落ちるはずだった植木鉢が、途中で止まる。
当たるはずのボールが、わずかに軌道を変えて横を通り過ぎる。
そんなことが、昔から何度もあった。
(まただ)
ユウは心の中でだけ呟く。
偶然。
最初はそう思っていた。
けれど、一度や二度じゃない。
十回。
二十回。
数え切れないほど繰り返せば、偶然という言葉では片付けられなくなる。
理由は分からない。
何か特別なことをしているわけでもない。
呪文を唱えるわけでも、強く願うわけでもない。
ただ。
起きるはずだった結果だけが、消える。
昔は気味が悪かった。
だが何度も経験するうちに慣れた。
いや、
慣れるしかなかった。
誰に話しても信じてもらえない。
自分でも説明できない。
何かがおかしいのは自分なのか、それとも世界なのか。
理由なんて分からなくていい。
何も起きなければ、それでいい。
そうやって今日まで生きてきた。
だから考えるのをやめた。
──現在
黒髪に黒い瞳。
少し伸びた前髪が目元にかかっている。
襟足だけが少しだけ伸びている。
勉強もそこそこ。
運動もそこそこ。
身長は平均より少し高いくらい。
制服もきちんと着ている。
どこにでもいる男子高校生。
少なくとも見た目だけなら。
放課後。
夕暮れの街は騒がしい。
信号待ちの人々。
聞き慣れた発車メロディ。
コンビニの自動ドアの音。
駅前へ向かう人の流れに紛れながら、ユウは大きく欠伸をした。
その日の授業も彼にとって退屈なものだった。
特に夢もなければ目標もない。
友達はいる。
だが多いわけじゃない。
恋人もいない。
将来やりたいことも特にない。
ごく普通の日常。
「今日は腹減ったな……」
そんな独り言を漏らしながら歩いていた、その時だった。
視線の先。
駅前広場の一角。
そこだけが妙に気になった。
何かある。
そう思う。
だが、何もない。
人も歩いている。
植え込みもある。
ベンチもある。
景色は何一つ変わらない。
……なのに。
どうしても、その場所だけが完成して見えなかった。
まるで誰かが世界を消しゴムで消したような、そんな不自然な空間。
『空白』
そんな言葉だけが妙にしっくりくる。
人々は誰一人として気にしていない。
視線を向ける者すらいない。
それが一番不自然だった。
その時。
ザッ──
頭の奥でノイズが走る。
視界が揺れた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
次々と景色が入れ替わる。
崩れたホーム。
焼け焦げた駅舎。
泣いている子供。
灰色の空。
まるで世界そのものが死んでしまったような光景。知らないはずの景色。
「……なんだよ」
思わず声が漏れるが、次の瞬間には消えていた。
夕暮れの駅前。
人々は笑い、歩き、何事もなかったように行き交う人々。
いつもの景色。
何も変わらない。
変わらないはずなのに。
妙な寒気だけがユウに残っていた。
「そこ、危ないよ」
不意に声がした。
ユウが振り返るとそこには知らない少女が立っていた。
夕日に照らされた金色の髪。
肩まで揃えられたボブ。
整った顔立ちだった。
けれど、一番印象に残ったのは、その瞳だった。
ユウを見ていない。
その向こう。
空白の奥にある何かを見ている目だった。
「危ない?」
ユウが問い返す。
少女は空白から目を離さない。
「近づかない方がいい」
「なんで理由は?」
少しだけ沈黙が落ちる。
少女は困ったように眉を下げた。
「……うまく説明できない」
「じゃあ勘?」
「そんな感じ」
「適当だな」
「説明するより当たる」
「何だそれ」
ユウは思わず笑う。
妙な答えだった。
けれど否定はできない。
自分も同じ理由で立ち止まっていたからだ。
その時。
彼女の表情が止まった。
まるで信じられないものを見たように。
「……え?」
小さな声。
次の瞬間大きく空間が軋んだ。
耳ではなく、頭の奥で鳴るような嫌な音だった。
そして一本の亀裂が走る。
パキッ――
ガラスにひびが入るような音だった。
だが違う。
割れているのはガラスじゃない。
景色だ。
信号機の輪郭が揺らぐ。
遠くのビルが歪む。
空気が軋む。
空白の中心に細い亀裂が走る。
ガラスにひびが入るように。
少女の顔色が変わった。
「離れて!」
だがユウは動けなかった。
いや、動かなかった。
ひび割れの向こう側から、
何かが覗いている気がしたから。
理由は分からない。
ただ、
「あれを出してはいけない。」
理由なんてない。本能が警鐘を鳴らしていた。
目の前の世界が悲鳴を上げ、亀裂がさらに広がる。
パキッ。
パキパキパキッ――!
空が割れ、景色が砕ける。
駅前の色が抜け落ち、人々の声が遠ざかる。
世界そのものが崩れ始めていた。
その瞬間ユウは思った。
広がり続ける崩壊を見て。
(広がるな)
ただ、それだけを強く。
願ったわけじゃない。
命令したわけでもない。
ただ。
その結果だけを、拒絶した。
次の瞬間。
広がり続けていた亀裂が、不自然なほど唐突に止まる。
そして、何事もなかったように消えていく。
沈黙。
少女は固まっていた。
信じられないものを見るような目で。
「……今、何したの?」
震える声。
「何って?」
「今の」
ユウは少し考える。
だが答えらしい答えは見つからない。
だから正直に言った。
「別に」
肩をすくめる。
「広がらない方がいいと思っただけ」
少女の瞳が大きく揺れた。
だが、その反応の意味が、ユウには分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
目の前の少女は、自分が見てきた誰とも違う。
そしてきっと。
少女から見た自分も同じなのだろう。
その時のユウはまだ知らない。
空白の正体も。
少女の名前も。
なぜ自分だけが世界の違和感を見てしまうのかも。
ただ──
変わるのは人生ではなかった。
世界の方だった。
その出会いを境に。
少しずつ、確実に。
世界は綻び始める。
そして世界は初めて、
修正できない例外
を観測することになる。




