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第10話 「空白の約束」

翌朝、ユウはいつも通りの時間に家を出た。

空は晴れている。


駅へ向かう人の流れも、学校へ向かう制服姿も、コンビニ前でだらだら話している学生たちも、何もかもがいつも通りだった。


ただ、ユウの頭の中だけが少しだけ違っていた。


灰色のホーム。

名前を思い出せない少年。

誰にも見えない無数の人影。


そして、黒いロングコートの女――神谷律。


昨日だけで、世界はずいぶん遠くまで広がった気がした。昨日までは、空白はただの違和感だったが今は違う。


あの向こうには、人がいる。

少なくとも、ユウにはそう見えている。


「……重いな」

小さく呟いて、鞄を持ち直す。


中には、布に包んだ学生証が入っている。

焦げた縁。

消えた名前。

世界に存在してはいけないもの。

律はそう言っていた。


けれど、ユウにとっては違う。

あれは、誰かが存在した証拠だ。

その違いだけは、たぶん最後まで譲れない。



学校に着くと、教室はいつも通り騒がしかった。


昨日と同じ机。

昨日と同じ黒板。

昨日と同じ声。


男子がくだらない話で笑っていて、女子が週末の予定を話していて、誰かのスマホから短い動画の音が漏れている。普通だった。


あまりにも普通で、少しだけ安心した。


同時に、少しだけ腹も立った。

世界は何もなかった顔をするのが上手すぎる。


「結城」


前の席の男子が振り返る。


「今日も顔死んでんな」


「毎日言ってないか、それ」


「毎日死んでるからな」


「縁起でもない」


「昨日何してたんだよ?」


「駅前行ってただけ」


「また?」


「また」


「駅前好きすぎだろ」


「俺もそう思う」


「え、何それ。怖」


ユウは適当に笑って、鞄を机の横へ掛けた。

椅子に座りながら、ふと鞄の方へ視線が行く。

布に包んだ学生証は、当然見えない。


それでも、そこにあることだけは分かる。

まるで、存在を主張しているようだった。



一時間目の授業が始まった。

教師の声。チョークの音。ページをめくる音。

眠そうなクラスメイトの気配。


全部が遠い。

ユウは黒板を見ながら、昨日の律の言葉を思い出していた。


修正。

継承者。

修正領域。


世界は矛盾を消す。


それが本当なら、あの駅前も、誰かにとって都合が悪かったから消されたということになる。


だが、都合が悪いとは誰にとってなのか。

世界にとって。

世界を管理する管理者にとって。


それとも。


「結城」


教師の声で、ユウは顔を上げた。


「この問題、答えてみろ」


黒板には見覚えのない式が並んでいた。

当然、何も聞いていない。


「……分かりません」


「早いな」


教室に小さな笑いが起きる。

教師がため息をついた。


「お前な、せめて考えるふりくらいしろ」


「考えてました」


「何を」


ユウは少しだけ黙った。

世界の修正について。

そんなことを言えるはずもない。


「あー、えっと、人生、ですかね」


教室がまた笑った。

教師は呆れたように眉を下げる。


「高校二年で人生を考えるのは悪くないが、今は数学を考えろ」


「すみません」


席に座り直す。

隣の席の生徒が小声で言った。


「人生は重いわ」


「たまにはな」


「たまにで済むんか」


ユウは返事をせず、窓の外を見た。

晴れた空。

何もおかしくない空。

昨日までなら、きっとただ退屈なだけだった。


けれど今は、この青空の裏側にも何かが隠れている気がしてしまう。



昼休み前の休み時間。


ユウが廊下に出ると、階段の近くにリリアが立っていた。


金髪のボブ。きっちり着た制服。

相変わらず目立つ。


けれど本人は、周囲の視線など気にしていないようだった。ユウは少しだけ歩く速度を落とす。


「おはようございます、先輩」


リリアがこちらを見る。

「急に敬語」


「一応」


「昨日は使ってなかった」


「昨日のことは昨日の俺です」


「今日のあなたも同じ人」


「正論やめてください」


リリアは少しだけ首を傾げた。

「普通でいい」


「いいのかよ」


「今さら」


「先輩の威厳は?」


「たぶんない」


「自覚あるんだ」


「ある」

会話が少しだけ自然になっている。


それが不思議だった。

数日前までは、名前も知らない相手だった。

それが今では、廊下で会えば普通に話す。


世界がおかしくなったせいなのか。

それとも、元々こうなるはずだったのか。


ユウには分からなかった。

リリアはユウの顔をじっと見た。

「眠そうね」


「ちゃんと寝た」


「嘘」


「何で分かるんだよ」


「顔」


「顔で判断するな」


「顔に出る方が悪い」


「それ俺の台詞なんだけど」


「借りた」


「返して」


「いや」


「そこは返せよ」

リリアは少しだけ口元を緩める。

でも、その小さな変化に気づけるくらいには、ユウは彼女の表情に慣れ始めていた。


「放課後」

リリアが言う。


「校門?」


「うん」


「今日も十五分前から待つのか?」


「今日は十分前」


「減ったな」


「調整したのよ」


「何の?」


「待ち時間」


「真面目か」


二人は少しだけ笑った。


「じゃあまた放課後な」


「うん」


そしてユウは授業のため別の教室へ移動していく。リリアも気にせず自分の教室へ戻っていく。



昼休み。


ユウは購買で適当にパンと飲み物を買った。

特に何を食べたいわけでもない。

ただ、何か口に入れておかないと午後までもたない。


廊下の端で袋を開けていると、またリリアと会った。


「また」

リリアが言う。


「まだ放課後じゃないんだけど」

ユウも返す。


「まぁ、同じ学校だから仕方ないわね」


「それはそうだけど」


リリアの手には紙パックの飲み物があった。

パンは持っていない。


「昼、それだけ?」

ユウが聞く。


「あとで食べる」


「いつ」


「考え中」


「昼休みに食べるタイミング考えるやつ初めて見た」


「人が多いところ、少し苦手なのよ」


「ああ」

言われてみれば、リリアはいつも少し静かな場所にいる。目立つ見た目をしているのに、人目を避けるようなところがあった。


「目立つの嫌なのか?」


「嫌というより、面倒」


「金髪でそれ言う?」


「地毛」


リリアは少しだけ不満そうに紙パックのストローを刺した。


「ユウは目立たないね」


「褒めてる?」


「たぶん」


「たぶんは禁止にしないか」


「便利だから無理」


「便利に負けるな」

そんな会話をしていると、廊下の向こうから数人の生徒がこちらを見ているのが分かった。


ユウは少しだけ声を落とす。


「見られてるぞ」


「いつも」


「慣れてるんだな」


「少し」


「あ、目が合った。セットで俺まで見られるな」


「ごめん」


即答だった。

ユウは少しだけ驚く。


「いや、別に謝ることじゃないけど」


「そう?」


「ああ」


「なら、よかった」

リリアは少しだけ安心したように息を吐く。


その横顔を見て、ユウは思った。

この少女は、空白が見える特別な人間である前に、ただ普通に学校生活を送っている高校生なのだ。


人に見られることを面倒に思い、昼を食べる場所に迷い、少しだけ言葉が足りなくて、それでもちゃんと相手を気にする。


それが、なぜか少しだけ嬉しかった。




―――放課後。



チャイムが鳴ると、教室の空気が一気に緩む。

椅子を引く音。

鞄を閉じる音。

部活へ向かう足音。



どれも見慣れた放課後の音だった。

れも見慣れた放課後の音だった。



ユウは鞄を肩に掛ける。

その重みの中に、学生証の存在を感じる。


世界に残ってはいけないもの。

それでも、今は自分が持っている。



校門へ向かうと、リリアはもう立っていた。


「早いな」


「十分前」


「今来たところだけど」


「じゃあ五分前」


「変わってるじゃねぇか」


「細かい」


「それ俺が言う側じゃない?」


リリアは何食わぬ顔で歩き出す。

ユウも隣に並んだ。


「今日の授業」


リリアが言う。


「昨日あんなことあったけど、ちゃんと聞いてた?」


「半分」


「半分だけ聞いてたんだ」


「半分も聞いてた」


「前向き」


「大事だろ」


「先生、怒ってたんじゃない?」


「呆れてたよ」


「今日に限っては私も授業ちゃんと聞けてなかったかも」


「まあ、普通はそうだろ。あんなことがあったんだからな」


「いつもはちゃんと聞いてるんだけどね」


「先輩真面目ですもんね」


「本当に急な敬語は気持ち悪いわね」


ユウはすこし笑って、呟いた。

「あいつ本当に今日いるのかな」


「あいつ…?あ、律さんのこと」


「そんな名前だっけ。」


「そうよ。」


信号待ちで、二人は足を止めた。

車が流れていく。


夕方の街は、昼より少しだけ色が濃い。

赤に近い光が、ビルの窓に反射していた。



改札の音。


アナウンス。


人の流れ。


そして、広場の一角。


誰も見ない場所。


空白。


その前に、予想通り神谷律はいた。

ただし、立っているだけではなかった。

黒いロングコートを着たまま、駅前広場の地面にしゃがみ込んでいる。


片手には小さなメジャー。

もう片方の手には方位磁石のようなもの。

地面には、小さな白い印がいくつか付けられていた。


ユウは思わず足を止める。


「……何してんだ、あいつ」


リリアも少しだけ目を細めた。


「測ってる」


「それは見れば分かる」


「何を?」


「それが分からない」


律は二人に気づいたのか、顔を上げた。

そして、真顔で言った。


「三分遅い」


ユウはため息をついた。


「まだ時間決めてねぇだろ」


「でも三分遅い」


「何基準だよ」


「私」


「一番信用できない基準だな」


律は立ち上がり、メジャーを巻き取った。

その仕草だけは妙に手慣れている。

ユウは地面の白い印を見る。


「で、何してたんだよ」


律は短く答えた。


「測定」


「何を」


「全部」


「雑すぎるだろ」


「まだ分類できないから」


「なんで、そんな分からないものを測ってんだよ」


「分からないから測る」


即答だった。

ユウは額を押さえた。


「律さんは何時からきてたんですか」


「私は朝からいる」


「え、」

リリアは驚いたように律を見る。


(こいつ暇なんだな…)

ユウも同時に思ったが口には出さないでおいた。


三人の前で、空白は静かにそこにあった。


誰も見ない。

誰も気づかない。


駅前は相変わらず人で溢れている。

待ち合わせをする人。

急いで改札へ向かう会社員。

笑いながら歩く学生。


誰も、この場所に違和感を抱いていない。


ユウは改めて空白を見る。


崩れたホームも。

灰色の空も。

割れたガラスも見えない。


今はただ、駅前の一角が静かに揺らいでいるだけ。

それでも昨日より、ほんの少しだけ、輪郭が濃くなっている気がした。


ユウは鞄の紐を握り直す。


「今日は入らない。」

律は空白を見つめたまま言った。


「まずは昨日との違いを確認する。」


「昨日との違い?」


ユウが聞き返す。

律は静かに頷いた。


「修正領域は同じ状態を維持しているとは限らない。」


「毎日少しずつ変化している可能性がある。」


「それを調べる。」


「だから測ってたのか。」


「そう。」


ユウは地面に残る白い印を見る。


「……で、それ何が分かった?」


律は少しだけ黙る。


「まだだ。一日では判断できない。」


「じゃあ明日も来るの?」


「来る。」


「明後日も?」


「必要なら。」


「暇なんか?」

今度は口に出すユウ。


「忙しい。」


「説得力ゼロだな。」


リリアが少し笑う。


「律さん、昔からこんな感じ?」


律は少しだけ考えた。


「昔から。」


「すごくきっちりしてる人なんですね。私も自分自身きっちりしてる方だと思ってたんですけど、律さんはそれ以上っていうか」


「私はずっとこんな感じだ。」


「あんたの幼少の頃もなんとなく想像つくな」


三人の間に、小さな笑いが生まれる。

昨日までは考えられなかった空気だった。

空白の前に立っているというのに、不思議と肩の力は抜けている。


律は再び空白へ目を向けた。


「……変わらない。」


「何が?」


「輪郭。」


「昨日と同じ。」


「じゃあ異常なし?」


「まだ断定できない。」


律はメモ帳へ何かを書き込む。


細かな文字。


図。


数字。


ユウには一つも読めない。


「そんなに書いて、後で読めるのか?」


「読める。」


「暗号にしか見えないけどな。」


「これは他人に読まれると困る。」


「なるほどね。」


「字が汚いから。」


「そっちかよ。」


リリアが思わず吹き出した。

「律さんでもそういうことあるんだ。」


「ある。」


真顔だった。


「意外と普通なんだな。」


ユウが呟き、律は首を傾げる。


「普通?」


「もっと研究とかしかしてないお堅い人間かと思ってた。」


「研究しかしてない。」


「いや、今会話してるだろ。」


「会話も研究。」


「怖いわ。」


「律さん。」

リリアがつぶやく。


「なんだ。」


「空白って、いつから見えてた?」


律は少しだけ目を伏せた。

「小学生くらい。」


「そんな前から?」


「最初は私だけだと思ってた。」


「怖くなかった?」


「怖かった。」


少しだけ間が空く。


「でも。」


律は空白を見つめたまま続けた。


「知らない方が怖い。」


ユウは少しだけ黙る。

その考え方は、自分にはなかった。


リリアが静かに口を開く。

「私は逆。」


二人が見る。

「見えない方がよかったって、何回も思った。」


「……。」


「でも、今は少し違う。一人じゃないから。」


三人は目を合わせて少しだけ笑った。


「安心しろ。これが見えるのは私達以外にも…」


その時だった。


――ジリッ。


ユウの肩が小さく震えた。


「どうした結城ユウ」

律が気付く。


鞄の奥。

何かが熱い。


昨日まではなかった感覚。

最初は気のせいかと思った。


だが違う。

確かに熱を持っている。


布をほどくと焦げた学生証。


縁の焼け跡。


消えた文字。


変わらない。


そう思った。

だが律が目を細める。


「……。」


「何。」


「見せて。」


ユウは少しだけ警戒した。


「触るなよ。」


「触らない。」


律は一歩近付く。

学生証をじっと見つめる。

そして小さく呟いた。


「昨日と違う。」


「何が。」


「焦げ跡。」


ユウも見る。


確かにほんの僅かだった。

ほんの数ミリ。

焦げた跡が昨日より広がっている。


「昨日、ここは焼けていなかった。」


「覚えてるのか?」


「全部な。」


「怖いな。」


律は学生証から目を離さない。

「修正領域の中で変化が起きている。」


リリアの表情も少しだけ硬くなる。


「でも、私たち何もしてない。」


「だから異常。」


律が言う。


「誰かが干渉している。」


その瞬間だった。


ユウの耳元で、本当にすぐ近くで小さな声が聞こえた。


『……来て。』


息が止まる。


少年だった。


間違いない、あの声だ。




今まで静かだった空白がほんの僅かに脈を打つ。


鼓動のように。


一度だけ。


ドクン。と。

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