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第11話 「灰色のホーム」

「ユウ?」


リリアが不安そうに声を掛ける。

ユウは視線を逸らさない。


「……呼ばれた。」


「え?」


「あいつだ。」


律の表情が変わる。

「また声が聞こえたの。」


「ああ。」


「何て。」


「来てって。」


律は空白を見つめる。

その目に、初めて迷いが浮かんだ。


「……向こう側から、能動的に干渉してきた」


「どういう意味だ」


「本来、修正領域は外へ呼びかけない」


律は言葉を切る。

そして、静かに続けた。


「少なくとも、私の記録にはない」


ユウは学生証を握りしめた。

布越しに、まだ熱が残っている。

鼓動のように、じんわりと。


「行く」


「待って」


律が短く制した。

「何だよ」


「確認する。中に何が見えても、勝手に走らないで」


「走るかどうかは見てから決める」


「決めないで。危険」


「すぐ危険って言うな」


「危険だから」


律は真顔だった。

リリアが一歩、ユウの隣に立つ。


「私も行く」


ユウはリリアを見る。


「大丈夫か」


「昨日よりは」


「昨日、結構ふらついてたぞ」


「大丈夫」


リリアはいつもの調子だった。

けれど、その指先はほんの少しだけ緊張が見える。


だがユウはそれに気付いて、何も言わなかった。

ただ、静かに右手を差し出すだけ。


リリアは一瞬だけその手を見る。

そして、何も言わずに掴んだ。


律はその様子を見て、少しだけ目を細める。

「やっぱり、あなたが起点なのね」


「起点?」


「彼女は一人では境界を越えられないから」


「……そこまで分かるのか」


「見れば」


「…俺たちは行くから」


律は返事をしなかった。

代わりに、空白へ一歩踏み出す。


黒いコートの裾が、境界に触れる。

次の瞬間、律の姿が夕暮れの景色から薄く滲むように消えた。


ユウは小さく息を吐く。

「俺たちも行くぞ」


リリアが頷く。

「うん」



二人は境界を越えた。


耳鳴り。

景色が滲む。

足元の感覚が一瞬だけ消え、次の瞬間には硬い床を踏んでいた。


音が消える。

駅前の喧騒も。

電車のアナウンスも。

車の走行音も。


すべてが、灰色の空気に吸い込まれた。

そこは、崩れたホームだった。


灰色の空。

焼け焦げた柱。


割れたガラス。

歪んだ案内板。


現実の駅前とは違う、事故の残骸。


空白の中。


リリアは息を呑んだ。


「……何回見ても、慣れない」


「慣れるもんじゃない」


ユウは短く答える。


律はすでに周囲を見ていた。


床。


壁。


柱。


ホームの端。


崩れた線路。


まるで目に映るものすべてを記録しているようだった。


「修正領域は、通常もっと揺らぐ。ここは他の所より安定している」


「安定してるならいいことじゃないのか」


「分からない」


「またそれか」


「安定しているのではなく、何かに抑えられている可能性もある」


ユウは眉をひそめる。


「嫌な言い方だな」


「嫌な場所だから」


それは否定できなかった。


ユウはホームの先を見る。

律は空間を見ている。

そして、リリアはユウを見ている。


そしてユウだけが、そこにいるはずのない誰かを探していた。


そして、見つけた。


ホームの奥。

灰色の霧の手前。


少年が歩いている。


ただ、こちらを待ってはいなかった。

まるで、何かに急かされているように、奥へ向かっている。


「おい!」


ユウが声を上げると少年の肩が小さく震える。


ゆっくりと振り返る。


その顔に、安堵が浮かんだ。


「あ……」


少年は小さく息を吐く。


「来てくれた」


「呼んだだろ」


「うん」


「何があった」


少年は答えなかったが視線だけが、またホームの奥へ向く。


「こっち」


「何がある」


「分からない」


少年は胸元を押さえる。


「でも、行かなきゃ」


「何で」


「分からない」



分からないと言いながら、少年の顔には明確な焦りがあった。

理由は分からない。

でも、行かなければならない。


その衝動だけが、彼の中に残っている。


リリアがユウの隣で小さく聞いた。


「もういるの?」


「ああ」


「どこ」


「奥。歩いてる」


リリアはユウの視線を追う。

だが、彼女の目には灰色のホームしか映っていない。


「……やっぱり見えない」


律も同じ方向を見る。


「私にも見えない」


「継承者でも?」


ユウが聞き、律は静かに頷く。

「修正領域には入れる。でも、中に取り残された人間とは接触できない」


「見えもしない?」


「見えない。声も聞こえない。会話もできない」


律は少しだけ間を置く。


「そもそも、本来は人間が残らない」


ユウは少年を見る。

少年は確かにそこにいる。


不安そうな顔で、ユウを待っている。


「いるんだよ」


「あなたにはね」


律の言葉は否定ではなかったが、断定でもなかった。

ただ現象を記録するかのような言い方。


リリアは黙っていた。


リリアには見えないし聞こえない。

少年の声も姿も。


でも、信じている。

ユウの言葉を。


ユウは少年へ向き直る。


「案内してくれ」


少年は頷いた。

そして、ホームの奥へ歩き出す。


ユウも続く。

リリアはユウの手を離さない。


律は少し後ろを歩きながら、周囲を観察している。


足音だけが響く。


割れたガラスを踏む音。

遠くで軋む鉄骨の音。

どこからか聞こえる、途切れたアナウンスのようなノイズ。


進むほどに、空気は重く、

ホームの奥は、昨日までよりも深い灰色に沈んでいた。


何かがいる。


いや。


いた。


灰色の霧の向こう。


無数の人影。


昨日も見た。


動かず、喋らず、ただ立ち尽くしていた人たち。

ユウは足を止める。


「……いる」


リリアが聞く。


「人影?」


「ああ」


律の声が少しだけ低くなる。


「数は」


「分からない」


「多い?」


「多い」


ユウは目を凝らす。

その中の一人、ほんの僅かに。

肩が揺れた。


「……動いた」


リリアが息を呑む。


「見えたの?」


「一人だけ動いた」


少年も、その人影を見ていた。


表情が変わる。

驚き。

戸惑い。

そして、胸の奥から込み上げるような、何か。


「知ってるのか」


ユウが聞く。


少年はゆっくり首を横に振る。


「分からない」


少しだけ間が空く。

それから少年は、震える声で言った。


灰色のホームに、静かな風が吹いた。

人影は、それ以上動かない。


ただ、こちらを見ている。

リリアには見えない。

律にも見えない。


それでも、ユウには分かった。


あの人影は、待っている。

少年も何かに導かれている。


けれどまだ、届かない。


ユウは学生証を握る。

布越しの熱は、いつの間にか少し強くなっていた。


「……会いたかった気がする。」

少年の声が、静かなホームへ溶けていく。

その言葉を境に、空気が変わった。


ホームの奥。

立ち尽くしていた人影の一人が、ゆっくりと顔を上げる。


「……。」


ユウは息を止めた。

一人だけじゃない。


その隣、さらに奥。

また一人。


そして、また一人。

動かないはずだった無数の人影が、眠りから覚めるように少しずつ動き始める。


「どうした?」


リリアが聞く。


「……みんな。」


ユウは目を離せなかった。


「動いてる。」


「人影が?」


「ああ。」


律は何も見えない。

それでも異変だけは感じ取っていた。


「空間が不安定になってる。」


律が低く呟く。


「昨日までこんな反応はなかった。」


ホームの床へ手を触れる。


「脈動してる……。」


ドクン。


その言葉に呼応するように、空白全体が脈を打つ。


床。


壁。


柱。


灰色の空。

世界そのものが鼓動する。


ユウの手の中で学生証が熱を帯びた。


「っ!」


思わず握り直す。


熱い。


昨日とは比べものにならない。

布越しでも火傷しそうなほどだった。


「また熱くなったの?」


リリアが心配そうに覗き、ユウは布をほどく。



焦げた学生証。


消えた名前。


その名前欄に。


一瞬だけ黒く焼けた文字が浮かび上がった。


『――』


読めない。

あと少しで読めそうなのに。


次の瞬間には、また焼け跡へ戻っていた。


「……今。」


ユウが呟く。


律が顔を上げる。


「何。」


「名前が。」


「見えた。」


律の目が大きく開く。


「何て書いてあった。」


「分からない。」


「一瞬だった。」


少年も学生証を見つめていた。

ゆっくりと近付く。

震える指先を伸ばす。


触れようとするが、

指先は学生証をすり抜けた。


「あ……。」


少年は何度も試す。


届かない。


掴めない。


存在しているのに、触れられない。

その姿を見て、ユウは胸が締め付けられた。


「知ってるのか。」


少年は静かに首を横へ振る。


「分からない。」


「でも。」


「……大切だった気がする。」


その一言だった。


次の瞬間。

ホームの奥から。


ガタン。

何かが倒れる音がした。


ユウが顔を上げる。


人影だった。


一人が前へ出る。

また一人。

また一人。

無数の人影が。


ゆっくり。


ユウの方へ歩き始めた。


「……。」


ユウは動けない。


怖い。


なのに、目を逸らせない。


人影たちは歩き続ける。


誰も喋らない。

誰も表情を変えない。


ただその全員がユウだけを見ていた。


「ユウ!」


リリアの声が遠く聞こえる。


「何が見えてるの!」


「みんな……。」


ユウは小さく答える。


「こっちへ来る。」


「え……?」


リリアには何も見えない。


律にも見えない。


見えているのは、ユウだけ。


人影はユウの目の前まで来ると、ゆっくり手を伸ばした。


一人。


また一人。


何十人。


数え切れないほどの腕が、静かにユウへ伸びくる。


その光景に、恐怖はなかった。


あったのはどうしようもない悲しさだった。


助けてほしい。


その一つの想いだけが伝わってくる。

少年は、その光景を見て震えていた。


「違う……。」


小さく呟く。


「違う。」


声が少しずつ大きくなる。


「違う!」


その瞬間だった。


世界がブレた。

景色が歪む。

灰色だったホームへ、一瞬だけ色が戻る。



夕暮れ。

人で賑わう駅。


制服姿の高校生。


笑い声。


ホームへ滑り込む電車。


『まもなく――』


駅のアナウンスが流れる。


次の瞬間。


轟音。


世界を裂くような爆発音。


熱風。


吹き飛ぶガラス。


悲鳴。


崩れ落ちるホーム。


そして誰かの叫び。


『逃げろ!!』


「っ!」


ユウは思わず目を閉じた。

鼓膜が震える。

息が詰まる。


だが。


ほんの一瞬だった。

目を開ける。


そこにはまた。

灰色のホームが広がっていた。


「ユウ!」


リリアが肩を掴む。


「大丈夫!?」


ユウは荒く息を吐く。


「今……一瞬だけ事故が見えた。」


律が息を呑む。


「事故?」


「一瞬だけ、景色が戻った。」


律は静かに空白を見る。

その表情は初めて驚きに染まっていた。


「記録にない……。」


「こんな現象は。」


「一度も。」


少年はその場へ膝をついていた。

頭を押さえながら、小さく震えている。


「思い出せない……。」


「でも。」


「あと少しで……。」


ユウは少年へ歩み寄る。

その時だった。


ホームの奥に立っていた無数の人影が。


一斉に。


深く頭を下げた。

誰一人、声は出さない。

けれど、その姿だけで十分だった。


『お願いします。』


そう言っているように見えた。

ユウは拳を握る。


学生証を強く握り締める。


「……助ける。」


静かな声だった。

それでもその言葉だけは、灰色のホームにはっきりと響いた。


少年はゆっくり顔を上げる。

初めてほんの少しだけ笑った。


ドクン。


空白が脈を打つ。

床が震えた。


焼け焦げた柱。

崩れたホーム。

灰色の空。


世界そのものが心臓のように鼓動する。

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