第13話 「いつもの帰り道」
カチ。
誰も動いていない。
誰も触れていない。
それなのに。
止まっていた駅時計が、ほんのわずかに震えた。
灰色の霧が、音もなく薄れていく。
ホームの奥。
今まで輪郭しか見えなかった景色へ、少しずつ色が滲み始める。
夕焼け。
ホームの白線。
ベンチ。
売店の看板。
止まっていた世界が、ゆっくりと呼吸を始める。
ユウは息を呑んだ。
事故の日が少しずつ、自分たちの方へ歩いて来る。
四人は言葉を交わさない。
すると、暖かい風が吹いた。
それは、さっきまで空白を満たしていた冷たい風とは違う。
どこか懐かしい。
夕暮れの駅で、誰もが一度は感じたことのある風だった。
灰色の霧が静かに揺れる。
その一粒一粒が、光の粒へ溶けていく。
まるで、世界が砂時計を逆さに返したように。
止まっていた時間が、ゆっくりと流れ始める。
「どうなってるの…」
リリアは不安そうな声でつぶやく。
「どんどん明るく…」
崩れた柱は音もなく輪郭を取り戻し、砕け散っていたガラス片は空中へ舞い上がると、何かに導かれるように元の窓へ吸い込まれていく。
焦げ跡は夕焼け色の光に溶け、黒く焼けた床は静かな波紋を描きながら磨かれたタイルへ姿を変えた。
遠くで、金属が軋む音が響く。
錆び付いていた電車が、眠りから目覚めるようにゆっくりと色を取り戻していく。
銀色の車体へ夕陽が映る。
ホームへ滑り込むその姿は、まるで時間そのものが巻き戻されているようだった。
そして誰もいなかったはずのホームへ、一人、また一人と人影が現れる。
最初は輪郭だけ。
次第に色を持ち、声を持ち、笑顔を持ち始める。
世界が、思い出していく。
空白の中に閉じ込められていた「あの日」が、静かに息を吹き返していた。
リリアも律も少年やこれまでの人影は目視することができなかったが、今回は二人にも場面の変化を感じることができている。
すると場所がぐるっと一変し、4人は駅の改札の手前に立たされていた。
さっきまで耳を支配していた静寂は消え、人の話し声が辺りを満たし始める。
「お疲れさまでーす!」
「今日も混んでるなぁ。」
「ねぇ、お腹空いた。」
改札を抜ける会社員。
制服姿の高校生。
買い物帰りの親子。
部活帰りらしい中学生。
どこにでもある、夕方の駅だった。
ユウは言葉を失う。
ついさっきまで灰色の廃墟だった場所とは思えない。
「……これが。」
リリアが小さく呟く。
「事故の日。」
律は答えなかった。
駅全体を見渡しながら、何かを確かめるように目を細めている。
その横で、少年だけが動かなかった。
懐かしい景色を前にした人間の顔だった。
驚きでもない。
喜びでもない。
胸の奥を静かに締め付けられるような、そんな表情。
「……帰ってきた。」
誰に向けた言葉でもなく、ぽつりと漏れた。
少年はゆっくり歩き出す。
誰に言われるでもなく。
迷うこともなく。
売店の前で立ち止まった。
ガラスケースの中には、おにぎりやサンドイッチが並び、湯気の立つ肉まんが保温ケースに入っている。
店員のおばちゃんが笑顔で客へ声を掛けていた。
「ありがとうございましたー。」
その光景を見つめながら、少年が少しだけ笑う。
「ここ、毎日寄ってた。」
ユウが隣へ並ぶ。
「思い出したのか?」
少年は少し困ったように首を傾げた。
「思い出した……っていうより。」
売店を見つめたまま、小さく笑う。
「身体が覚えてた。」
その言葉に、ユウは返事ができなかった。
記憶はなくても。
毎日歩いた道は、身体が忘れていない。
少年は売店の前にしゃがみ込む。
「あ。」
自販機の横を指差した。
「ここで一回、お金落とした。その時、おばちゃんが。」
そこまで言って、止まる。
「……その先が思い出せない。」
苦笑いを浮かべる。
「でも、笑ってた。俺も。おばちゃんも。」
それだけで十分だった。
ユウには、その続きを想像できた。
少年は立ち上がる。
「次。」
誰かに案内するように歩き始めた。
ホームへ続く階段を上る。
一段。
また一段。
その足取りは軽かった。
「毎日ここ通ってた。」
「学校帰り?」
「うん。……たぶん。」
少し照れくさそうに笑う。
「制服、こんなんだったかな。」
自分の服を見る。
制服は事故の日のまま。
それすら、今初めて気付いたようだった。
ホームへ出るとちょうど電車が到着するところだった。
ブレーキ音。
ホームへ流れる風。
開くドア。
降りてくる人。
乗り込む人。
誰もが疲れた顔をしながら、それでも家路を急いでいる。
少年は、その一人ひとりを目で追っていた。
「あの人。」
スーツ姿の男性を指差す。
「毎日急いでいつも走ってたな。」
少し笑う。
「今日は間に合ったみたい。」
次に駅員を見る。
ホームを歩きながら、子どもへ優しく声を掛けている。
「黄色い線の内側で待ってね。」
少年も笑う。
「あのおじさんも毎日いた。雨の日も暑い日も。雪の日も。」
ユウが聞く。
「知り合いだったのか?」
少年は首を横へ振った。
「違う。でも毎日おはようって言ってくれた気がする。」
ほんの一言。
それだけだった。
名前も知らない。
年齢も知らない。
それでも毎日顔を合わせれば、それはもう日常だった。
それは誰にとっても当たり前の景色。
だからこそ、胸が痛い。
少年はホームをゆっくり歩き、突然、足を止めた。
視線の先には、一人のおじいさん。
ポケットから定期券を落としたことにも気付かず歩いていく。
少年は反射的に駆け出した。
「おじいちゃん!」
手を伸ばす。
定期券を拾おうとする。
だが。
指先は何も掴めなかった。
すり抜ける。
少年の手は、床を触れることさえできない。
「あ……。」
そこで初めて思い出したように、自分の手を見る。
もう何も触れられない。
ユウも思わず定期券へ手を伸ばした。
だが同じだった。
掴めない。
触れられない。
世界はそこにあるのに、自分たちはただ見ているだけ。
律が静かに言った。
「この世界は過去そのもの。私たちは観測者でしかない。何一つ変えられない。」
その言葉が、妙に重く響いた。
少年は少しだけ笑う。
悔しそうな笑顔だった。
「昔の僕なら絶対届けてた。」
ユウが聞く。
「何で分かる。」
少年は少し考えたあと、小さく肩をすくめた。
「分からない。」
「でも。」
「困ってる人を見ると身体が勝手に動いてた気がする。」
その答えは、驚くほど自然だった。
誰かに褒められたいわけでもない。
正義感を振りかざしたいわけでもない。
ただ目の前に困っている人がいたら身体が先に動く。
そういう人間だった。
ユウはその横顔を見つめた。
――だから最後も。
そうだったんだ。
まだ何も思い出していないのに、その答えだけは胸の中へ落ちていった。
少年は再び歩き始め足を止めた。
夕陽がホームを赤く染めている。
少年は何も言わず、駅の時計を見上げた。
「ここ。」
ぽつりと呟く。
「毎日。」
「ここで待ってた。もう少ししたら誰かが来る気がする」
ユウは時計を見る。
「誰を?」
少年は目を閉じる。
静かに首を横へ振った。
「分からない。でも、すごく会いたかった人。」
風が吹き、制服の裾が揺れる。
ホームにはいつも通りの時間が流れている。
ユウは何も言わなかった誰なのか。
家族なのか。
友達なのか。
恋人なのか。
聞けば聞くほど、その答えは遠ざかってしまう気がした。
長い沈黙のあと、少年は小さく笑う。
「変だよね。会いたいのに誰だったか思い出せない。」
その笑顔は、ひどく寂しかった。
「顔も。名前も。全部なくなっちゃった。でもここへ来ると…」
少年はゆっくりホームを見渡した。
「安心する。」
その一言だけで十分だった、記憶は失われても。
心だけは、この場所を覚えている。
そして後ろにあるベンチへそっと指を差す。
「ここも毎日座ってたんだ。」
「その会いたかった人と一緒にか?」
ユウが尋ねると少年は首を傾げた。
「……いや。」
少しだけ考え込む。
「誰か来るまでここで待ってた。でも思い出せない。」
苦笑いを浮かべる。
それでも、どこか幸せそうだった。
その表情を見ていると、不思議と分かる。
ここには、確かに笑っていた時間があった。
『まもなく二番線に電車が到着いたします。黄色い線の内側までお下がりください。』
少年の肩が、小さく震えた。
笑顔が消える。
何かが胸の奥を掴んだ。
「……。」
時計を見る。
午後五時十二分。
その数字を見た瞬間。
鼓動が速くなる。
理由は分からない。
なのに胸の奥だけが叫んでいる。
違う、ここで立っている場合じゃない。
「どうした?」
ユウが声を掛ける。
少年は返事をしない。
できなかった。
頭ではなく身体が先に動いていた。
一歩。
また一歩。
無意識に二番線のホームへ歩き出す。
「……え。」
自分でも驚いたように足を止める。
「何で。」
震える声。
「僕、何で、こっちに……。」
頭を押さえる。
呼吸が乱れる。
何かが思い出せそうで。
あと少しなのに届かない。
苦しそうに顔を歪める。
「分からない。」
小さく呟く。
「でも。」
少年は前を向く。
その瞳だけは、迷っていなかった。
「急がないと。」
次の瞬間。
少年は夕暮れのホームを駆け出した。
「おい!」
ユウも反射的に走る。
リリアと律も、その背中を追った。
夕焼けに染まるホームへ、電車がゆっくりと近付いてくる。
ホームの時計だけが、静かに時を刻んでいた。
17時12分58秒。
あと二秒。
誰もまだその二秒が、世界を変えることになるとは知らなかった。




