第14話 「17:12」
何かが、もうすぐ終わる。
夕暮れのホームを風が吹き抜ける。
ユウも、前を行く少年のその背中を追っていた。
「おい、待て!」
ユウが叫んでも少年は振り返らない。
リリアと律も後ろを走る。
ホームには、いつも通りの時間が流れていた。
制服姿の高校生が笑っている。
「じゃあまた明日!」
「おう!」
部活帰りらしい男子生徒が肩をぶつけ合って笑う。
駅員が笛を鳴らしながらホームを歩く。
『黄色い線の内側までお下がりくださーい。』
売店のおばちゃんが最後の肉まんを包んでいる。
「今日はこれで売り切れ!」
「やった!」
小さな男の子が嬉しそうに笑う。
親子が手を繋ぎ、電車を待っている。
会社員はスマートフォンを見つめたまま欠伸をした。
どこにでもある夕方。
どこにでもある帰り道。
誰も知らない。
知るはずない。
あと数秒で、この景色が永遠に終わることを。
少年は二番線のホームまで辿り着いた。
息が苦しい。
胸が痛い。
時計を見る。
17時11分59秒。
その数字を見た瞬間だった。
胸の奥で、何かが弾けた。
「……。」
息が止まる。
頭の奥で、誰かの笑い声がした。
『また明日ね。』
知らない声。
知らないはずなのに。
涙が零れた。
「誰……。」
その一言だけが零れた。
思い出せない。
もう少しなのに。
あと少しなのに。
届かない。
少年は目の前が一瞬暗くなる。
目の前が明るくなったその時だった。
ホームへ電車が滑り込んでくる。
ブレーキ音。
金属が擦れる音。
風。
制服が揺れる。
夕陽が車体へ反射する。
その光景を見た瞬間、世界から音が消えた。
「……え。」
ユウが立ち止まる。
風が止まる。
笑い声が止まる。
ブレーキ音が消える。
誰も動いていない。
時間だけが、世界から切り取られたようだった。
少年だけが、ゆっくりと空を見上げる。
オレンジに染まった夕焼けだった。
さっきまで。
そのはずだった。
空に一本細い亀裂が走る。
ガラスへ傷を付けたような、小さな白い線。
パキッ。
音はしない。
それでも確かに世界が割れた。
その亀裂の向こう側は、夕焼けではなかった。
真っ白。
何もない白。
底も終わりもない白。
少年は息を呑む。
次の瞬間。
世界が動き出す。
ブレーキ音。
人の声。
風。
全部が一斉に戻る。
そして車両の中央が、不自然に膨らんだ。
ほんの一瞬風船のように鉄が歪んだ。
少年の瞳が大きく開く。
「危な――」
最後まで言えなかった。
轟音。
白い光が世界を覆う。
そう思った瞬間には、景色が消えていた。
何も見えない。
何も聞こえない。
身体が宙へ浮く。
次の瞬間、床へ叩きつけられた。
肺の中の空気が一気に押し出される。
息ができない。
耳鳴りだけが、頭の奥で鳴り続けていた。
「っ……!」
少年は咳き込みながら顔を上げる。
夕焼けは消えていた。
さっきまで笑っていたホームは、もうなかった。
黒い煙。
崩れ落ちた天井。
割れたガラス。
横倒しになった電車。
火花を散らす架線。
目の前の景色が理解できない。
何が起きた。
どうして、さっきまで、みんな笑っていたのに。
耳鳴りの向こうから、小さな声が聞こえた。
「……たすけて。」
少年は反射的に振り向く。
崩れたベンチの向こう。
瓦礫の隙間から、小さな手が見えた。
迷わず身体が勝手に動いていた。
瓦礫へ駆け寄る。
「大丈夫!」
返事はない。
両手で瓦礫を押す。
でも、動かない。
もう一度力を込める。
すると少しだけ浮いた。
その隙間から、小さな男の子が涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら這い出てくる。
そして少年を見上げて、
「ありがとう……。」
少年は笑う。
「お母さんかお父さんは一緒だった?」
男の子は何度も頷いた。
「でもどこにいるか分からない…」
「じゃあ一緒に探そ…」
するとホームの反対側から悲鳴が聞こえた。
少年は振り向く。
ホームの中央。
崩れた案内板の下で、駅員が必死に誰かを引き上げようとしている。
その姿を見た瞬間だった。
胸の奥が熱くなる。
見たことがある毎日。
この人は…
毎日。
「気を付けて帰れよ。」
そう言っていた。
名前は知らない。
それでも知っている。
駅員もこちらへ気付く。
「君!」
叫んでいる。
でも耳鳴りで聞こえない。
その時、横倒しになった車両の奥から、何人もの人が助けを求めていた。
多くの人の手がこっちに向く。
誰から助ける。
どこへ行く。
でも耳鳴りで聞こえない。
一人助けても。
まだいる。
また一人。
また一人。
助けを求める声だけが増えていく。
「くそ……!」
拳を握る。
間に合わない。
身体は一つしかない。
その時だった。
少年の視線が、無意識にホームの時計を捉える。
煙の向こう。
割れたガラス越し。
止まることなく動いている秒針。
十七時十二分。
その数字を見た瞬間、胸の奥で、何かが弾けた。
『待ってるね。』
声。
女の子の声。
一瞬だけ。
制服姿の誰かが笑った。
顔は見えない。
思い出せない。
それでも。
「……っ。」
足が止まる。
会いに行かなきゃ。
その想いが胸をよぎる。
だが次の瞬間、少年の目の前で、駅員が崩れた柱に押し潰されそうになる。
目の前の男の子も近くの親子も泣いている。
高校生が友達の名前を叫んでいる。
泣き声。
助けを求める声。
全部が胸へ突き刺さる。
少年は目を閉じた。
たった一瞬だけ。
そして。
ゆっくりと拳を握り締める。
「……ごめん。」
誰へ向けた言葉だったのか。
自分でも分からない。
ただ次に開いた瞳には、迷いが消えていた。
「助けないと。」
その声は小さかった。
けれど、その一言だけは、爆発音にも負けず、まっすぐ世界へ響いた。
少年は決意し男の手をつなぎながら再び走り出す。
一人を助けるためではない。
目の前にいる助けを求めるすべての人のために。
その背中を少し離れた場所から見つめるユウは、何もできなかった。
手を伸ばしても届かない。
声を張り上げても聞こえない。
そこは過去だった。
変えられない。
救えない。
それでもユウは初めて思った。
──こんな結末は、認めたくない。
その瞬間。
その瞬間だった。
ホームへ横倒しになっている電車の中央車両で、小さな光が瞬いた。
誰も気付かないほど、小さな光。
まるで蛍が一匹、車内で飛んだようだった。
「……?」
少年だけが、その違和感に目を向ける。
次の瞬間。
ボンッ。
鈍い音が響いた。
爆発というには、あまりにも静かだった。
空気が押し出される。
ホーム全体が大きく震える。
車両の窓ガラスが一斉に砕け散った。
ガシャァァン――!!
無数の破片が夕陽を反射しながら宙へ舞う。
悲鳴が上がる。
「何!?」
「逃げろ!」
「伏せろ!」
人々がようやく異変に気付く。
しかし、それは始まりに過ぎなかった。
車両中央が、不自然に膨らむ。
鉄が悲鳴を上げる。
ミシ……
ミシミシ……
まるで内側から何かが押し広げているように、車体がゆっくりと歪んでいく。
律の表情が変わった。
「ユウ!」
その声と同時だった。
轟音。
世界が揺れる。
爆炎が車両を突き破り、ホーム全体を飲み込んだ。
赤い炎が夕焼けを塗り潰す。
熱風が吹き荒れ、人々の叫びが駅中へ響き渡る。
そして電車の無数の破片が柱へぶつかる。
案内板が吹き飛ぶ。
照明が弾ける。
大爆発。
ホームは火の海となり黒煙が立ち上る。
そしてホーム全体が悲鳴を上げるように軋み始めた。
ユウ、リリア、律は目の前の大惨事に巻き込まれているが、
やはり体は何事もなく、過去に起こった出来事を、記憶を、リアルな映像として体験しているにすぎない。
それでも、このあまりにも現実的な光景に、彼らの感覚が違和感を覚えずにはいられなかった。
そして、
「崩れる!」
律の叫びが響く。
天井へ一本の亀裂が走る。
それは蜘蛛の巣のように一瞬で広がり、巨大な梁がゆっくりと傾いた。
誰も動けない。
倒れた案内板の下敷きになった駅員へ。
燃える無数の人。
崩れたホームで身動きの取れない高校生
その姿を見たユウは叫ぶ。
「あいつは!」
先ほどまで目で追っていた少年の姿が見えない。
ホーム全体が、大きく沈んだ。
ゴゴゴゴ……
地鳴りのような音が響く。
床が裂ける。
柱が折れる。
巨大なコンクリート片がゆっくりと落ち始める。
その瞬間だった。
世界から、音が消えた。
炎が止まる。
煙が止まる。
崩れ落ちていたコンクリートも、空中で静止した。
泣き叫んでいた人々も。
砕け散っていたガラスも。
すべてが、その一瞬だけ時間を失った。
ユウは息を呑む。
「……何だ。」
灰色の空へ、新たな亀裂が走る。
一本。
また一本。
世界そのものが砕け始めていた。
次の瞬間、世界は、白く染まった。
爆音も。
熱も。
痛みも。
その瞬間、すべてが途切れた。
――。
少年の姿はどこにあるか誰も知りえないが、暗闇の中で彼の意識は、そこで終わった。
「……助けないと。」
・・・
ユウ、リリア、律の3人は息を呑む。
気づくと
灰色のホーム。
崩れた駅。
燃え続けるはずの炎。
そこには、さっきまで見ていた事故の光景が広がっていた。
違う。
いや、戻っている。
ユウは理解した。
ここは自分たちが最初に立っていた空白だった。
その中央には少年が立っていた。
爆発などなかったかのように。
傷ひとつない制服のまま。
ただ、どこか虚ろな瞳で前を見つめている。
「助けないと……。」
その一言だけを繰り返しながら。
「おい!お前無事だったのか!」
ユウは叫ぶ。
リリアも震える声で。
「見える……あの子が。」
律も口を開く。
「あの少年は…さっきの修正領域の記憶で…」
ユウは驚く。
「え?おまえらにもみえるのか…」
「うん。きっとあの子がユウが言ってた子だよね」
「ああ」
「おそらく、私たち二人もこの領域の過去に深く触れてしまったことが原因だろう」
リリアは少年を見つめ、
「……最初から。」
律は静かに目を伏せた。
「そういうことだ。」
ユウは拳に強く力をこめ、歯を食いしばる。
そして少年に近づいていく。
「おい」
呼び掛けても、返事はない。
少年の瞳は、もうユウを映していなかった。
ただ事故の日だけを見続けている。
その時だった。
足元で、ぽたり、と。
黒い雫が落ちる音がした。
誰のものでもない。
影でもない。
床へ落ちた黒い染みが、ゆっくりと広がっていく。
一滴。
また一滴。
それは血ではなかった。
煙のようでもあり。
液体のようでもある。
黒い何か。
それは、少年の足元からではない。
崩れたホームの至る所から。
駅員が倒れていた場所。
親子がいた場所。
高校生たちが笑っていた場所。
あらゆる場所から、静かに滲み出していた。
まるで誰にも届かなかった想いだけが、世界の底へ沈んでいくように。
律の表情が変わる。
今まで見たことがないほど険しい顔だった。
「……下がって。」
その声には、初めて焦りが滲んでいた。
ユウが振り返る。
「何だ、あれ。」
律は答えない。
答えられなかった。
黒い染みは音もなく集まり始める。
煙となり。
渦を巻き。
ゆっくりと、一つの形を作り始めていた。
少年は、それに気付かない。
ただ前を向いたまま。
「助けないと。」
その言葉だけを繰り返している。
理由は分からない。
けれどあれを放ってはいけない。
そんな確信だけが胸を締め付けていた。
灰色の空が、静かに軋む。
そして黒い煙の奥で何かが、ゆっくりと目を覚ました。




