5.お粗末すぎる悪巧み(4)
「エ、エヴェリーナ……な、なぜ君が、」
「「なぜ」? 先ほどの挨拶が聞こえなかったの?」
ラファエロと連れ立って挨拶へ向かった時の夫の狼狽えようは見るに堪えないものだった。
成人後の息子の姿をまざまざと思い起させる黒い髪と青い瞳。形の良い鼻梁に薄い唇。
しかしそのおどおどとした物言いはとてもではないが侯爵家の当主とは思えなかった。
(この人、こんなに落ち着きがなかったかしら?)
冷静に過去を振り返ってみるが、夫とはいえどうしてあんなにもこの男に執着していたのか自分でも謎である。
「王妃殿下から今回のマードレ・ステラーレを依頼されたからよ。あなたもご覧になっていたでしょう」
「し、しかしなぜそんな大役が君に……? 君は結婚してからずっと社交を避けていたじゃないか!」
「好きで避けていたわけじゃないわ。誰かさんが私に社交をさせなかったからよ」
扇で口元を隠しこれ見よがしに眉を顰めて見せる。この国では、貴婦人が夫への怒りを表す際の代表的な所作である。扇を心の壁に見立て「これ以上は土足で踏み込んでくれるな」という明確な拒絶を示すのだ。
宣戦布告とも呼べるその仕草に、ドナートは案の定黙った。
会場の視線が俄かに集まってくるのを感じる。特に先ほどラファエロと二人で挨拶を交わした貴族たちほど、自分たちのこのやり取りに注目しているようだった。
「ドナート、この方は一体……?」
エヴェリーナの目の前で堂々と夫と腕を組む女性が不思議そうな顔でこちらを見た。その察しの悪さにエヴェリーナは心底呆れてしまった。
はじめて対面する夫の愛人は、背格好や髪の色がどことなくエヴェリーナに似ている。しかし顔立ちや仕草は相手の方が柔らかく、全体的に愛くるしい雰囲気をまとっている。それが余計に腹立たしかった。
対するコルヴォ男爵夫妻はすぐにこの状況を飲み込んだらしい。夫人が取り繕ったように声を掛けてくる。
「ま、まあ、お初にお目にかかります! あなたがアルディーティ侯爵夫人でしたのね! そのパリュールは前侯爵夫人から受け継がれたものかしら? 本当に何度見てもお美しいわ。夫人に素晴らしくよくお似合いで、」
「失礼ですよ、コルヴォ夫人」
男爵夫人の度を越した馴れ馴れしさにラファエロがぴしゃりとその言葉を遮った。
「彼女は侯爵夫人です。初対面のあなたから勝手に話しかけるなど、いささか非常識ではありませんか」
「構いません、トリステラ卿。丁度彼女にお伺いしたいことがありましたので」
口元を隠していた扇を閉じ、エヴェリーナはコルヴォ夫人ににっこりと微笑みかける。
「実は、先ほど夫人の口からおかしな言葉が聞こえた気がいたしまして……。確か夫人がそちらの女性のことを「アルディーティ夫人」とお呼びしていたような……私の勘違いかしら? ドナートの妻は名実共に私のはずなのに、どうしてそのような勘違いが起きたのでしょうか?」
「そ、それはっ……!」
「いや、そんなはずはありません」
一瞬で青ざめた男爵夫人を即座に庇ったのは、予想に反して夫ではなくコルヴォ男爵であった。
「我々は今でこそ男爵位を賜っておりますが、その本質は飽くまでも商売人。それは我が妻も同じです。名前を間違うなど、そのような無礼をするはずがない」
(なぜ男爵が? まさか、この時期からすでに何か企んでいるの?)
自分にライラを殺すよう唆した当時のあくどい顔を思い出し、エヴェリーナの脳裏に疑念が過ぎる。しかしここまではっきりと間違いだと言い切られては、これ以上エヴェリーナに追求する術はない。あからさまにほっと胸を撫で下ろした夫が憎たらしい。
(この件は別の方向から責めた方が良いかしら。例えば男爵がドナートを利用しようとしているとか……)
仮にその通りだったとしても、それには様々な情報や証拠を集める必要がある。今この場では男爵の悪事を暴くのも、夫の不誠実さを糾弾することも難しいだろう。
「さようでございましたか」
今回は大人しく引き下がった方が良いかもしれない、とエヴェリーナが諦めかけた時だった。
「さて、おかしな話ですな。私も先ほど、コルヴォ夫人がその女性を「アルディーティ夫人」と呼ぶのをはっきり聞きましたが」
遠巻きにしていた参加者の中から、男爵の言葉に堂々と異を唱える者が現れた。記憶の中にあるより僅かに老いてはいたが、耳馴染んだ声だ。
まさか、とエヴェリーナは驚愕に振り返る。
自分と同じ燃えるような赤い髪に鮮やかな緑色の瞳。老いてもなお鍛え抜かれた体躯。侯爵家の当主たるもの騎士であれ、と息子に剣を持たせた人物。
「お、お父様……」
夫に侯爵位を譲って以来、一切領地から出てくることのなかった父の姿が、なぜかそこにあった。
「それとも私も夫人の言葉を聞き間違ったのか……トリステラ卿、君には聞こえていたかね? 男爵夫人が何と仰っていたのか」
「まさか聞き違いということはないでしょう。私にもはっきりと聞こえましたよ、夫人がそちらの女性を「アルディーティ夫人」と呼ぶのを。恐らく他の皆様にも聞こえていたはずです」
父に後押しされ、ラファエロが寒々しい笑顔でドナートの方を見た。
「どういうことかご説明して頂けますね、侯爵」
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