4.否定が踏ませた同じ轍(6)
秋の陽が落ちる直前の時刻を狙い、本邸に戻る前に馬車で港町まで向かった。ラファエロの言った通りで、海を見に行くことを告げると、ガブリエーレは素直についてきた。
夜が近づいているにも関わらずトリステラの港は活気で溢れており、人々の暮らしが肌で感じられる。そこでエヴェリーナは初めて前回の人生も今回の人生も、王都の侯爵邸であろうとトリステラ伯爵邸であろうと関係なく、屋敷に引きこもり一歩も外へ踏み出そうとしていなかった自分に気づいた。外へ出てはいけない、と無意識に思い込んでいた自分に気づいた。
生まれて初めて間近で見る海は途方もなく広い。大きな赤々とした夕陽が沈んでいくのを見ていると、自分の生きてきた世界は随分と狭かったのだと身に染みて感じさせられた。
――私たちは人間であって神ではありません。完璧であろうとしなくていいんです。
数時間遅れで漸くラファエロの言葉の意味が飲み込めたようだった。エヴェリーナの目からぽろぽろと涙が零れ落ちる。
この美しく広大な海の前では、人は皆等しく無力だ。今は穏やかな絶景を見せているこの港も嵐が来れば荒れ狂う。時には魔物にも襲われ、大きな被害が出ることもあると聞く。しかし自然とは、人生とは、生きるとはそういうものだ。
それでもこの港町で働く人たちは海へと沈んでいく夕陽を眺め、その日一日を無事終えられたことに感謝の祈りを捧げるのだと聞かされた。荒れる海の恐ろしさを知っているからこそ、今日一日の幸せを喜べるのだという。
トリステラ領では魔物の襲撃を含め「大きな自然災害は人が自分の幸福を見失った時に起こる」と言い伝えられているからだ。
(私、これまで私にとって完璧ではなかった両親を責めていたんだわ。自分を見てもらうために努力しなければと思う一方で、ちっとも私のことを気にかけてくれなかった父を恨んでいた)
そしてだからこそ余計に自分が完璧であらねばと思い込んでいた。しかし実際に蓋を開けてみれば自分のことで手いっぱいで、完璧な親になど全くなれていなかった。そんな自分を責めていた。許せたつもりで許せていなかった。だから自分の中の怒りを手放せなかった。
災害にも魔物の被害にも遭うことなく、これまで平穏無事に過ごせていたというのに。
太陽はもう間もなく地平線へと姿を消そうとしている。風が大分冷たくなってきた。冬を迎えるにはまだ早いが、この季節の港は冷える。陽が完全に沈み切るのを見届けたら馬車へ戻ろうかと考えていた矢先、誰かが自分の左手を握った。
小さいが温かい手だった。それが誰のものかなど見なくてもわかる。
「ガブリエーレ……」
馬車の中で待っていると思っていた息子が、いつの間にか自分の隣に立っていた。
「そろそろ戻りましょう母上。これ以上はお体に障ります。手がこんなに冷たくなっている」
労わるように手を引かれ、馬車へと促される。幼いながらも自分を気遣おうとする息子の姿に、エヴェリーナは漸く自分と両親の未熟さを許せるような気がした。
◇ ◇ ◇
「こんばんは公子様。海へは行けましたか?」
その晩、ラファエロは遅い時間にガブリエーレを訪ねた。普通の子どもであれば既に寝入っている時間だが、案の定、普通の子どもではない公子は起きていた。
「トリステラ卿、本日はありがとうございました」
「とんでもありません。礼なら母上に言ってください。私は母上の思いつきに偶然乗せて頂いただけですから」
ガブリエーレが花を吐いたあの初対面の日、ラファエロはその優れた直感力で彼が何者かを悟った。
母と違い、ラファエロには透視能力がない。ゆえにこれから何が起こるかも、他人が何を背負っているかも視ることができない。
しかし一柱だけ、気まぐれのようにラファエロに声を聴かせる神がいる。自身に加護を与えているフォルトゥーナである。
あの状況では、運命の女神がガブリエーレに深く関わっていることは明白だった。しかしガブリエーレにフォルトゥーナの加護はない。それなら結論はひとつだけ。
「しかしまさか公子様が時戻りの英雄だとは。もともと信じているつもりでしたが、今日の模擬戦を拝見してやっと実感が湧きました」
「あれを私の実力と思われるのは不服です。回帰前と勝手が違い過ぎてこの体にはまだ慣れません」
「私にはとてもそうは見えませんでしたが……お母君に似て完璧主義でいらっしゃいますね」
ラファエロの言葉に、ガブリエーレはやや決まり悪そうに視線を逸らす。白い頬が僅かに紅潮しているので、機嫌を損ねたのではなくただ単に照れているのだろう。
(素直じゃないところまで似た者母子だな)
その可愛げのなさが、逆に可愛らしいところでもあるのだが。
片や自分は息子に嫌われていると頑なに信じている夫人。片や母の身を案じ時戻りの恩寵を受けるべく試練まで乗り越えておきながら、当の母を目の前にすると素直になれない息子。
本人たちが互いに深く広いと思っているその溝は、実は跨ぐ必要さえないほど浅く狭いものだ。ガブリエーレは母親が幸せになりさえすればそれで良いと思っているようだが、おそらくこの二人の溝を埋めてやらなければ女神も母も納得しないだろう。もちろん、それはラファエロ自身も。
「さて公子様、ひとつご提案がありまして」
ラファエロは上着の内ポケットから先ほど受け取ったばかりの分厚い封書を差し出した。中身はすでに確認済みだ。
「これは?」
「どうぞご覧になってください」
ガブリエーレは封書の内容と同封されている大量の写真に目を通し、眉根を寄せる。
「やはりショックですか?」
「いえ、もともと知っていたことなので今更見たところで何も……。ところで、卿は一体どうやってこれを?」
公子の細い指が乱暴に写真を弾く。
「たまたま良い記者と知り合ったものですから、彼が所属している新聞社に根回ししていたのです。現状を動かすには十分だと思いますが、いかがですか?」
「確かにこれだけ揃っていれば十分です。ですがひとつだけ気になります」
「何でしょう?」
まだあどけない形の青い目が僅か警戒するようにラファエロを睨む。
「卿が私たちにここまでしてくださる理由がわかりません」
(さて、どう答えたものかな)
つまり何か魂胆があるのだろう、というのがガブリエーレの懸念事項のようだ。ラファエロの純粋な厚意ではない、と見破るあたり流石である。
確かに魂胆はあった。適当にはぐらかすべきか、それとも素直に本心を打ち明けるべきか。
いずれにせよ敵視されそうではある。しかしそれ以上に、自分の魂胆を知った時のこの公子がどのような表情をするのか見たいといういたずら心もある。逡巡したのち、ラファエロは包み隠さずぶちまけることにした。
「公子のお母君はお可愛らしい方ですね」
「はい?」
「初めてお会いした時はなかなか気難しい方だと思ったのですが……存外、健気で、わかりやすく、お可愛らしい方でした」
もとよりつぶらかだった公子の目が、驚いたようにきゅっと見開く。いつも大人びた顔が外見の年相応の焦りを見せ、この選択は正解だったと確信した。
「このような気持ちを女性に抱くのは、亡くなった妻以来です」
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