4.否定が踏ませた同じ轍(2)
荷解きは使用人に、息子は護衛騎士に任せ、エヴェリーナは人払いされた居間でマリアンナとお茶をすることになった。
あの夜会以降、マリアンナとは数通手紙のやり取りを交わしただけで、直接会うのは今回がまだ二回目だ。それにも関わらず実の母親よりも安心できるこの居心地の良さはどういうわけだろう。
この大聖女にはつくづく不思議な存在感がある。
「その様子だと、わたくしからの課題にきちんと取り組んでくださったようね」
「はい、お陰様で少し落ち着きました。ありがとうございます」
エヴェリーナは予め荷解き前に避けておいた革のノートをマリアンナに差し出す。
「ご覧になりますか? お恥ずかしい内容ばかりですが……」
表紙は鮮やかな赤い染めに、魔法陣であろう幾何学的な刻印。そこかしこに小粒の魔石がきらびやかに埋め込まれ、華やかながらも品の良いデザインとなっている。エヴェリーナのために、万年筆と揃いでマリアンナが選んでくれたものだ。
機密保持のため、閲覧・使用を制限させる魔術が仕込まれたノートやペンは珍しくないが、もっと厳めしい外観の物が多く、ここまで女性受けする繊細な仕様は珍しい。その上、書き心地も最上級。気になって調べたら、女性客をターゲットとした銘柄を多く手掛けている老舗の文具メーカーによるものだった。
文房具など「機能が満たせればそれで良い」と思っていたエヴェリーナにとって、デザインまで拘るという考えは目から鱗だった。
ノートにはこの半月間、嬉しかったこと・楽しかったことだけでなく、日々の生活で感じた怒りや不満、自己嫌悪など、エヴェリーナの感情がそのまま書き連ねてある。絶対に他人には見られたくない内容だったが、不思議とマリアンナであればどんな自分も快く受け入れてくれる気がした。
「ありがとう」
マリアンナはノートを受け取ると、慈しむようにその表紙を撫でた。
あの夜会の翌日、エヴェリーナと一緒に王宮へ宿泊したマリアンナは、屋敷に帰る前に一つ課題を出していた。自分のお気に入りのノートとペンを用意し、そこへ都度、その時の自分の感情を書き出すというものだ。そして帰り際に一緒に町へ寄り、そのための文具を一緒に選んでくれたのだった。
最初は「日記を書け」という意味かと思ったが、話を聞くと、もっと細かに自分の感情をそのまま吐き出すようにするというもので、エヴェリーナはひどくためらった。夫への不満、息子への不安、この先の未来への恐怖など、頭の中で渦巻いていることは山ほどあるが、それをこのような美しいノートとペンに吐き出してもいいのかと気後れしてしまったのだ。
しかし、「文字は大きくても小さくてもいいのよ。文字が乱れていてもいい。丁寧じゃなくてもいい。攻撃的な内容でもいい。汚してもいい。悲観的でもいい。どんな感情も自分の宝物だと思ってそのノートに書きなさい」と言われ、帰ってから恐る恐る自分の気持ちを綴ってみた。
取っ掛かりがわからなかったので、目下悩んでいるガブリエーレへの接し方から、どうすればいいか、どうしたらいいかを書き出してみた。
出てきた言葉をようやくすると、そこにあるのは「怖い」という感情だった。
自分なんて価値がない。生きている意味がない。誰にも大切にされていない。何の役にも立っていない。愛される価値がない。このまま誰にも愛されず、息子にも憎まれたまま人生が続いていく。それがとてつもなく苦しく、恐ろしい。もう二度とあのような死に方をしたくない。そもそもどうして自分があのような目に遭わなければならなかったのか。どうしてあの方法しか最善が見つからなかったのか。
(私だって頑張ってきたのよ。これまでずっと頑張ってきたのよ! それなのにどうして)
頑張ってるのに、こんなに頑張ってるのに、と、ほとほとと涙を流しながら何度も書きなぐっている自分に気づき、エヴェリーナはそこではじめて(私ってとても頑張ってきたのだわ)と気づいた。慌ててノートを読み返してみると、苦しい言葉が溢れるほど出てくるのに、自分を労う言葉は何ひとつ出て来ていなかった。
今までこの世界はエヴェリーナに優しくないと思っていた。しかし自分を責める言葉ばかりを並べ立てた挙句、周囲にまで恨み言を振りまき始めたこのノートはどうだろう。エヴェリーナ自身が、実は一番自分に優しくなかったのだ。
(ああ、私今まで本当に頑張ってきたんだ。必死にここまでやってきたんだ)
それはエヴェリーナが初めて自分自身を認められた瞬間でもあった。これまで両親にも、夫にも、息子にも、褒められたことなどなかった。自分に向けられる言葉は常に厳しく、自分の努力に報いるような労わりも与えられたことはなかった。しかしそれ以上に自分自身が一番自分に対して厳しく酷い言葉をずっと心の中で浴びせ続けていたのだということに、エヴェリーナは漸く気づくことができた。
これからはもっと自分に優しい言葉をかけてあげよう。その日、エヴェリーナはそう決めた。
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