鬼怒川烈子と行く!異世界散歩5
目覚めの一発として、烈子課長が口の奥から絞り出した弩級に粘つく痰が、邪視の顔面の真ん中へと容赦なく吹き飛んだ。
「ぎゃあああああああーーーーーっっっ!!!」
最凶の怪異であるはずの邪視は、そのあまりの不潔さと烈子の容赦のなさに絶叫を上げ、そのまま精神的なショックで白目を剥いて気絶した。
「ったく、寝起きからクソ汚いもん見せやがって……」
烈子課長は豪快に頭をかきむしると、近くにあった、廃墟にしか見えない異界の衣料品店のショーウインドウを拳で粉々にぶち破った。そして、中から適当に掴み出してきた新品の服を、地面に転がる二人の上へと乱暴に投げつけた。
「おい、早く着替えろ」
烈子課長は目線と顎だけで、ぐったりとした真壁と気絶した邪視に素早い着替えを指示すると、自身は早くも次のタバコに火をつけ、ストロングレモンサワーを美味そうに楽しむのだった。
新しく調達された服への着替えをどうにか終わらせた邪視と真壁は、荒れ果てた芝生の上で、鬼怒川烈子課長に向かって並んで正座をさせられていた。
「邪視んところの、久しぶりだな! まぁ、今のは不可抗力の事故ってことで綺麗さっぱり忘れてくれや、な?」
烈子課長は缶入りのストロングレモンサワーを片手に、豪快な笑みを浮かべて邪視の肩をバシバシと叩いた。叩かれるたびに、邪視の華奢な体がビクビクと強張る。
「は、はぁ……。大丈夫です、慣れてますから……。それで鬼怒川さん、今回は一体何のご用でこちらの裏まで来られたんですか?」
「おうよ。ここ数年はワシもすっかり零感になっちまってな、裏の異界までわざわざ来る余裕がなかったんじゃ。だが、最近になってその原因だった大元が消えたっちゅうのに、一向にワシの霊感が戻らん。だから、ここいらで手っ取り早く濃ゆい霊素を取り込みに来たんじゃ! しかし、ここも相変わらず何も変わらんなぁ? ガハハハ!」
「は、はぁ……」
邪視は引きつった笑みを浮かべながら、内心で激しく冷や汗をかいていた。この歩く天災のような女がこちらの世界に来ると、決まってロクな目に遭わないからだ。できることなら、今すぐにでも回れ右をして逃げ出したい。
その隣では、真壁が邪視と一切目を合わせないまま、静かに、しかし深く首を縦に振っていた。
怪異と人間。立場は全く異なる二人であったが、鬼怒川烈子という理不尽な絶対強者による「被害担当」という共通点において、彼らの間には言葉を超えた熱いソウルブラザーとしての絆が芽生えつつあった。
「ところで、邪視んところの! ワシが今求めてるのはな、そこらのツチノコやスカイフィッシュとは比べ物にならんくらい、濃ゆ〜い霊素なんじゃ! あるだろ? ワシに隠すなよ? アムリタとかソーマみたいな、最高の神水がよぉ! あるんじゃろ?」
烈子課長はギラギラとした肉食獣のような目で邪視を睨みつけた。
「あー……その、神水ですか? あれはちょっと、いくら鬼怒川さんのお願いでも……」
邪視が言い淀んだその瞬間、どこからか飛んできた尖った小石が、邪視の片目を正確に直撃した。
衝撃で邪視はその場に転げ回り、目を押さえながら悶絶する。その悲惨な様子を見て、烈子課長はケラケラと愉快そうに笑い声を上げていた。一通り地面でのたうち回った後、邪視は涙目で腫れ上がった目を押さえながら、意を決して抗議の声を上げた。
「だって、あれ……烈子さんがまだ学生の頃に、オカルト研究会の合宿だかでこの裏の世界に来て、龍神様の吹き出し口に噛み終えたガムをミチミチに詰めてから、一切湧かなくなったの、まさか忘れましたか!?」
その言葉を聞いた瞬間、烈子課長の顔が目に見えてギクッと強張った。
「わ、ワシはそんな大昔のことは一切覚えとらんぞ! お前、そんなびっくりするほどユートピアな大嘘を吐いて、ワシの完全復活を妨げるつもりだな? このドグサレ怪異がぁ!!」
「ひぃぃ、違います、本当なんです! 嘘じゃありません、命だけは助けてください!」
邪視は両手を激しく振って、必死に命乞いをする。
その一連のやり取りを横で聞いていた真壁は、あまりの呆れ事実に思わず遠い目をして呟いた。
「うわぁ……。鬼怒川課長って、学生の時からやってることが全く変わってないんですね……」
「もう少しお淑やかだったわい!!」
烈子課長の怒号と同時に、再びどこからか放たれた小石が、真壁の額へと寸分の狂いもなく命中した。真壁は衝撃で頭を押さえてひっくり返る。
烈子課長はフンと鼻を鳴らすと、地面に倒れる邪視と真壁の二人の襟首を、それぞれ左右の手で強引に掴み上げた。腕力で軽々と宙に吊り上げられ、二人はカエルのように手足をバタつかせる。
烈子課長は二人を顔の前に引き寄せると、ドスの利いた低い声で静かに問いかけた。
「おい、神水がダメなら、他にもまだあるじゃろ? ワシの霊力を一発で全回復させるような、とびきり上等な代物がよぉ……? 吐け、さもなければ二人まとめてシシノケの巣に放り込むぞ」
失われた力を求める最強のメスゴリラの脅迫に、人間と怪異の急造コンビは、同時に恐怖のどん底へと叩き落とされるのだった。
「は、は、話します! 教えますから! 離してくださいぃぃい!」
「何も知らないけど、離してくださいいいい!!」
二人がそれぞれの絶叫を上げると、烈子課長は掴んでいた襟首を乱暴に放した。どさりと地面に落とされ、真壁と邪視は揃ってゲホゲホと激しくむせ返る。
「なんじゃい、知っとるなら最初からすぐに答えんかい!」
烈子課長は不機嫌そうにストロング缶をあおり、邪視を睨みつけた。邪視は喉をさすりながら、必死に記憶を呼び起こして言葉を紡ぐ。
「はい、あの、その……ここから少し離れたところにある社の宝物殿に、確か、どの龍神様かは忘れてしまいましたけど、『龍の逆鱗』が保管されていたと記憶しています。もしかしたら、それを煎じて飲めば、鬼怒川さんの霊力も一発で全回復するかもしれませんね?」
「よっしゃ! そうと決まれば帰るぞ、真壁!」
烈子課長は我が意を得たりとばかりに、勢いよく踵を返した。そのあまりの決断の早さに、真壁は目を丸くする。
「え? 帰るんですか!?」
「そうじゃい。ここに目的の物があると分かっただけで大満足じゃい!今回は十分な収穫じゃ……オラッ! 獲れたぞ! ヤマピカリャーじゃ!!」
「いやぁぁあああーーーっ!! やめて!! それはただのイリオモテヤマネコですって!! 天然記念物を勝手に捕まえないでぇぇええ!!」
課長が真壁の顔面に力任せに押し付けてきたのは、斑点模様のある大きな野生の山猫だった。腕の中で、山猫がのんびりと、にゃー、と間の抜けた鳴き声を上げる。
「なんじゃい、未確認生物が嫌いな男子がおるんか? ほら、行け! 二度と人間に捕まるなよ、毛玉!」
烈子課長が適当に手を放すと、野生の山猫は弾かれたように藪の奥へと消えていった。真壁は顔を押さえながら理不尽に憤る。
「名付けのセンスがゴミすぎるよぉぉおおお!!」
その言葉が、烈子課長の逆鱗に触れた。
強烈な平手打ちがバチィンと美しい快音を響かせ、真壁の頬へと炸裂する。しかし、その余波の勢いがあまりにも強すぎた。ビンタの衝撃で吹き飛んだ真壁は、横でただ見守っていただけの、何も悪くない邪視の顔面へと真正面から突っ込んでしまった。
至近距離で、邪視の「目」と、真壁の「目」が完全に合致する。
「ひ、ひぎぃあぁぁあああ!!!」
真壁は今日一番の悲鳴を上げ、そのまま白目を剥いて完全に精神のシャッターを下ろした。
次に目が覚めた時、真壁の鼻腔をくすぐったのは、嗅ぎ慣れた地下のカビの埃の匂いと、事務員の栞さんが叩き出す、静かで規則正しいキーボードのタイピング音だった。
「あ……僕、生きてる……」
市役所の地下オフィスの天井を見上げ、真壁は生還の喜びに静かに涙を流した。
「おう? 起きたか?」
聞き慣れた烈子課長の声が響く。真壁はホッと安堵しながら起き上がろうとして──そして、全身の血液が凍りついた。
「あ、どうも。お邪魔しています」
パイプ椅子に腰掛け、湯呑みを手にお行儀よくお茶を啜っている邪視と、バッチリ目が合ってしまったのだ。
「きゃあああああああああーーーーーっっっ!!!」
幽霊社会復帰課のオフィスに真壁の絶叫がこだまし、彼は再びその場に倒れ込んで気絶した。
「まったく、本当に根性の無いガキじゃい」
烈子課長はあきれ顔でタバコの煙を吐き出す。
「まったくですね」と、栞さんが視線を画面に向けたまま冷静に同意する。
「早く僕の顔にも慣れて欲しいもんですねぇ」と、邪視がズズ、とお茶を啜りながらしみじみと呟いた。
人間と怪異、そして最凶の化け物。三者三様の言葉が飛び交う中、幽霊社会復帰課の地下の時間は、今日もいつも通りに、理不尽に過ぎていくのだった。




