鬼怒川烈子と行く!異世界散歩3
「シ、シシノケの群れだ……。あばばばば」
真壁の口から、まともな言葉にならない悲鳴が漏れる。
「いくら無敵のワシでも、あぁいうのだけは絶対に触りたくないからのぅ。だから騒ぐなと言ったんじゃい! ほれ、あいつらに見つかって集まってくる前に、場所を変えるぞ! しっかりついて来い!!」
「は、はひぃ、ごめんなさいぃぃ!!」
真壁は涙と鼻水を撒き散らしながら、リュックを抱えて烈子課長の背中を必死に追いかけるのだった。
「はぁはぁ、流石に美少女危機一発じゃったのう? こんなに焦ったのは昨日タバコを買った時に自販機に免許証を忘れた時以来じゃい! ガッハッハ」
あのシシノケの群れから無事に逃げ延びた烈子課長は、豪快に笑いながらそう言い放った。美少女という言葉の定義を根底から揺るがすような発言だが、本人は至って真面目らしい。
一方の真壁は、慣れない異界での二キロメートルにおよぶ全力疾走により、完全に膝をついて地面にくたばっていた。喉はカラカラで、心臓が口から飛び出しそうだ。
「情け無いのぅ。ほれ、これを飲め」
差し出されたのは、年季の入ったプラスチックのボトルだった。
あの凶暴な課長が、珍しく優しい気遣いを見せている。真壁は感動のあまり、潤んだ瞳で上司を見上げた。
「え? 課長が優しい……なんだか、しゅきになりそう……」
完全にヤクザのやり口だが純粋な真壁であった。
喉の渇きに耐えかねて、ボトルの中身を勢いよく喉に流し込む。しかし次の瞬間、真壁の顔は見たこともない色に染まった。強烈なアルコールの臭気と、喉を焼くような刺激が鼻へと突き抜ける。
「ブベッ……あ、これ、お酒──ヴォエッッ!!」
渡されたのは、水ではなく、25度の芋焼酎だった。真壁は地面をのたうち回り、涙目で激しくむせ返る。そんな部下の無様な姿を見て、烈子課長はケラケラと指を指しながら大爆笑していた。
「も、もう動けません……ヴォエッ……」
「なっさけないのぅ! せっかくこのワシという美女と異界をピクニック出来るというのに、何が不満なんじゃ。オラ、見ろ!」
「え? なんですか? 怖い、来ないで……!」
真壁が身構えるより早く、烈子課長が音速で空中に手を伸ばし、何かを鷲掴みにした。
「見ろ! 真壁! スカイフィッシュ捕まえた!」
「やめてーーーっ!! すぐに未確認生物を捕まえて顔に近づけないでぇー!! グロイ、見た目がすごくグロイです!!」
課長の手の中で、棒状の体に無数の翅を生やした、半透明の怪しげな生物がジタバタと暴れていた。
「なんじゃ、未確認生物が嫌いな男子がおるんか?」
烈子課長はそう呟くや否や、なんの躊躇もなく、捕まえたばかりのスカイフィッシュを口へと放り込んだ。
バキ、ゴキ、ガリッ、と、およそ生きてる人間から鳴ってはいけない、生々しい咀嚼音が静かな異界に響き渡る。真壁が恐怖で固まる中、課長は平然と何かを吐き出した。
「ペッ……翅は食えんぞ?」
「え……? この人、未確認生物をそのまま食べた……? キモッ……ギャンッ!」
次の瞬間、真壁の脳天へ、岩石が落下してきたような特大のゲンコツが激しく落とされた。あまりの衝撃に真壁の視界が火花でチカチカと明滅する。
「馬鹿野郎!! 好き好んで食っとるわけ違うぞ!? ボケナシボケアリナシナシが!! 霊素の補填じゃい!!」
「え、えぇ……? 霊素って、食べてなんとかなるものなんですか……?」
真壁が頭をさすりながら恐る恐る尋ねると、烈子課長はフンと力強く鼻を鳴らした。
「知らんがな!! ぶち殺すぞ! テメェをさっきのシシノケの群れの中にぽつんと置いてきてやろうかァ!?」
「お、お許しをーーーっ!! 僕が悪かったです!!」
真壁が全力で命乞いをすると、課長は落ちていたリュックを拾い上げ、真剣な眼差しで異界の奥へと視線を向けた。
「ほれ、昔の神話とかにアムリタとかソーマとかあるじゃろ? 飲むだけで不老不死になるとか、霊力が跳ね上がるとかいう、神界の酒とか水とかの類じゃ! ワシがかつての最強の霊感を取り戻すための、そういう特別な『特効薬』をな、この異界の奥深くに探しに来たんじゃい」
霊感を失った最強のメスゴリラが求める、伝説の神水。真壁は己の生存をかけ、そのあまりにも危険すぎる宝探しに付き合わされる羽目になるのだった。
「さて、そろそろ暗くなってきたな。ボケ真壁が叫ぶせいでシシノケに絡まれて、寝袋をあそこに忘れてきたわい」
異界の反転した空がどす黒く濁り始める中、烈子課長はチッと舌打ちをして吐き捨てた。
「僕のせいですか!? そもそも課長が何も説明してくれないから──」
言い切るより早く、烈子課長の容赦のないカーフキックが、真壁の脛へとバチィンと炸裂した。狙い澄まされた骨を断つキレ味に、真壁の口から、ひぎいぃい、と情けない悲鳴が漏れる。
「ワシは少し寝るから見張りをしておけ。二時間交代な? もしワシが寝とる間にエッチな気を起こしてみろ、お前の生殖器官を引きちぎって、お前の実家に速達で送りつけてやるからな!」
「わ、わかってますよ! 僕には魔子ちゃんという大切な──」
「愛の告白も済んどらんザコドーテーバージンが笑わせるな! ほらっ」
言葉を被せるようにして、烈子課長が真壁の足元へ何かをグチャッと投げつけた。それは、先ほど課長が食い散らかしたスカイフィッシュの無惨な残骸だった。
「黙ってそれでも食いながら外を見張れ」
「は、はい。食べませんけど、見張ります。だって怖いから……」
「ふん! おやすみ」
「はい、ゆっくり休んでください……」
そうして一時間がお経過した。
静まり返った異界の暗闇の中、真壁のお腹がぐぅと鳴った。
「お腹すいたなぁ……ゴクリ」
真壁は足元のスカイフィッシュの残骸を見つめた。
「に、匂いを嗅ぐだけなら、ね?」
自分に言い訳をしながら、恐る恐る顔を近づけてみる。
「オエッ! 課長の噛んだところ、臭っさ!! ドブとアルコールとヤニの匂いがきつ過ぎるよ……。こっちの噛まれてない方はどうかな、くんくん。……んー、無臭だ」
空腹に耐えかねた真壁は、目を瞑って残骸の端に口をつけた。
「少しだけ、少しだけ……あがっ、硬い! こんなの食べられないよーー!! この人どんだけ顎の力強いんだよ!」
人間の歯では歯が立たない。仕方がなく、真壁は視線を烈子課長の生々しい歯型のついた部分へと戻した。
「仕方ない、課長の噛み跡……。こ、こ、これって……か、か、か、関節……ち……チッス!? あわわわわわわ!」
一人で勝手に純情なパニックに陥りながらも、真壁は意を決して、恐る恐るそこに口をつけ、中身の汁を啜った。
「うっわ! まっずいまずいまずいまずい!! えぐいえぐい! 酸っぱい汁をビニール袋の中に漬けたような味……! オエッ、口直し口直し!! いつもなら絶対に手をつけないけど、課長のストロングなレモンサワーで!」
喉の奥から込み上げる不快感を消そうと、真壁が転がっていたストロング缶に手を伸ばした、その瞬間。
「ワシのレモンサワーに触るにァァァアアアッッッ!!!」
眠っていたはずの烈子課長の目がカッと見開かれ、真壁の右手がガシッと掴まれた。直後、ボキボキボキイイイイと、信じられない破壊音がバラック小屋に響き渡る。
「ヒギイイイイイいい!!!」
真壁の悲鳴がこだまする。彼の右手の全ての指が、あり得ない方向へと曲げられていた。
「あ、あ、あ、あ、あ……」
「おはよう真壁、交代の時間か? ……なんだ、まだ少し早いじゃねえか。すり潰すぞ? もう一度おやすみ」
烈子課長は寝ぼけ眼のまま、あ、あ、あ、と震える真壁の折れた指をまとめて掴むと、バキッと強引に真っ直ぐな位置へと戻した。そして真壁の頭をパァンと力任せに引っ叩いてから、再び何事もなかったかのように眠りについた。
(この人はなんでこんなところで、五秒で爆裂なイビキをかけるんだ……? ほんと、この人が一番の怪異だよ……。あ、でも、見張りを続けなきゃ……)
涙目で折れた手をさすりながら、真壁は再び窓の隙間から外の暗闇へと視線を向けた。
そして、真壁の全身の血液が、一瞬で凍りついた。
目が、合ってしまったのだ。
今の騒ぎの物音で、バラック小屋のすぐ近くまで寄ってきてしまっていた「化け物」と。
それは、これまでの異形とは違い、普通の、ごくありふれた人間の形をしていた。どこにでもいる、完璧な人間の姿なのだ。
しかし、その男と合わせた目が、どうしても離れない。
心の中のすべての感情が、急速に冷めていく。声を出そうとしても喉が完全に閉塞し、言葉にならない。恐怖のあまり、下半身から全ての糞尿が垂れ流されていくのが分かった。
それは、現世のいかなる暴力をも凌駕する、見つめられた者の魂を腐らせる最凶の呪い──
『邪視』
(あ、終わった……)
真壁は完全に蛇に睨まれた蛙となり、ただ破滅を待つことしかできなかった。
続く!!




