地獄の獄卒!鬼怒川烈子という女2
その頃、隣の部屋──。
顔を茹でダコのように真っ赤にした真壁と魔子は、コップを壁にぴったりと押し当てて必死に様子を伺っていた。
「え? なんか急に小声になっちゃった? 魔子ちゃんは何か聞こえる?」
「…………」
大人の世界の生々しい吐息を聞いてしまった魔子は、完全にキャパシティをオーバーして俯き、上の空で魂が口から出かかっていた。
壁の向こうの部屋では、バスローブ姿の烈子課長が煙草の煙を吐き出し、重苦しい沈黙が流れていた。
「……比良坂崇前課長の事は、本当に残念でした……」
ベッドの上の栞さんが、静かにその名前を口にする。
「お前に何がわかる……」
「課長の……烈子先輩の……その……」
「そうだよ。私の恋人だった人だ」
烈子課長は自嘲気味に鼻で笑った。
「彼を私は救えなかった。希望を抱いてた小娘がクソみたいな幽霊社会復帰課に配属されて、そこで優しかった先輩と恋に落ちた……どこにでもある三流ドラマだよ」
「あの事件は! あの事件は誰にも止められませんでした! 決して先輩のせいじゃありません!」
「うるさいっ!!」
感情を昂ぶらせた鬼怒川課長が、手元にあったグラスを素手で握りつぶした。破片が飛び散り、彼女の手のひらから鮮血がポタポタと滴り落ちる。
「っ!」とベッドから飛び起きた栞さんが、救急箱を引っ掴んで爆速でその手当てを始めた。
「……すまない、栞。お前に当たることじゃないのに」
「いいんです。大丈夫ですから、先輩」
烈子課長は包帯を巻かれながら、悔しそうに床を睨みつけた。
「あの時、私にもっと力があれば……霊感が残っていれば……彼は……崇さんは……」
「ええ。【日本猿の幽霊の大群に囲まれて連れ去られ、数日後に山奥で完全に野生化した姿で発見された時】は、私達も笑いが止まりませんでしたからね、ブフッ」
「な? なんで猿の幽霊に攫われただけで現世の人間が『野生化』してキキィーッて鳴いてんだよ?ってなって、あの時はお前と二人で腹抱えて笑ったよな?」
「はい。忘れもしません。あの狂気的な光景は、今思い出しても傑作です」
壁の向こうで聞き耳を立てていた真壁は、ひっくり返りそうになった。
(な、なんで猿の幽霊に攫われて野生化するんだよ!? 意味がわからなすぎるだろ前課長!!)
「……だけどさぁ」
烈子課長は遠い目をしながら、寂しそうに呟いた。
「そのせいで私の愛した男は、今も精神病院の隔離病棟で鎖に繋がれたまま、自分が人間だったことすら忘れてバナナを要求し続けてる……。入院治療費だって、安月給の地方公務員には厳しいんだよ。崇さん……」
鬼怒川課長の目から深いクマが薄れ、絶世の美女顔でふっと微笑む
「だから私は、どれだけ罰当たりと言われようが、どれだけゼニゲバと罵られようが、クソ怪異どもを社会復帰(ブラック就労)させて金を毟り取らなきゃならんのだ……!!」
◇
隣の部屋──。
「そ、そんな過去が……。だから課長はアレほどの不法労働ピンハネビジネスに手を染めていたのか……」
真壁は、烈子課長の背負ったあまりにもリアルで(ちょっとシュールな)重い過去に、不覚にも少し感動して目頭を熱くさせた。
──が、すぐに冷徹な現実が真壁の脳内をよぎる。
(……いや待てよ? だからって、その八つ当たりで毎日僕をボコボコに殴り飛ばすのは普通に違くないか? あと、よくよく考えたら、こないだ悪魔のピンハネ代でオメガの高級時計買ってたよなあのメスゴリラ!? 普通に私腹も肥やしてるじゃん!!)
「真壁君……大人の世界って、やっぱり奥が深いのね……」
「魔子ちゃん、頼むからそっちの『大人の世界』の妄想からは早く帰ってきて!!」
烈子課長の壮絶な過去を知ってしまった真壁たちの明日はどっちだ。




