地獄の新人歓迎会3
外に出ると、冷たい夜風が真壁の火照った頬をなでる。だが、その風よりも、課長の放つドブのような吐息と、この街に渦巻く終わりのない怨念の方が、ずっと濃密で、ずっと冷たかった。
地獄の歓迎会は、まだ始まったばかりである。
「ここだ! このビルだ!」
課長の指差す先、真壁にははっきりと見えた。屋上から何度も何度も繰り返される、重力に従った黒い影の落下。地面に激突しては黒いシミのように広がり、まるでビデオの巻き戻しのように、何事もなかったかのように屋上へ吸い上げられていく。
その落下地点を通り過ぎる酔客たちは、影が重なる瞬間に顔を青くし、バタバタと路上で嘔吐していた。
「煩いなぁ、煩いなぁ……! 落ちる音と潰れる音が脳内に直接響くんですけど!」
栞さんは霊こそ見えないものの、その不快な音響に苛立ちを隠せない。対して課長は、見当違いな空地に向かって「ここか? ここか?」と拳を突き出している。真壁は心底疲れた顔で、本当の落下地点を指さした。
「……ここです」
課長は待ってましたとばかりにポケットからワンカップ大関を取り出し、一口含むと、己の右拳に霧状に吹きかけた。
「おい真壁、タイミングを合わせろ。落ちてきた瞬間に教えろ」
真壁はもうどうにでもなれという気持ちで、カウントダウンを始める。
「……5、4、3、2、1……今です!」
次の瞬間、黒い影が視界に現れたタイミングで、課長の右拳が完璧なアッパーカットとなって虚空を貫いた。
ドォォン!と空気が弾ける音と共に、地縛霊の影がビルの壁を突き破りそうな勢いで吹き飛ぶ。
間髪入れず、栞さんが駆け寄り、音の鳴る場所へチョークで猛スピードで魔法陣を描き殴る。路上に浮かび上がる幾何学模様。次の瞬間、影は人間のような形を取り、アスファルトの上で正座させられた。
「夜中の三時に迷惑な飛び降りしてんじゃねえよ! ビルに迷惑だと思わんのか!」
課長が地縛霊に怒鳴り散らす。深夜のオフィス街。側から見れば、何もない空間に向かって酒臭い美人が殴る蹴るの暴行を加え、その横で栞さんが冷徹に罵声を浴びせ、真壁が「まぁまぁ、課長、ここは外ですから……」と必死に宥めているという、警察沙汰間違いなしの奇妙な光景が出来上がっていた。
「おい、真壁! こいつに説教しろ! お前の言葉で、こいつに『飛び降りるより働け』って教えてやれ!」
課長の無茶振りに、真壁は地縛霊の透けた顔を見つめる。彼はただ、課長の説教と物理的な衝撃で、半ば気絶しかけていた。
「バカ野郎!まだ説教の途中だ!」
課長はそう怒鳴ると、地縛霊の額に火のついたタバコをジュッと押し当てた。肉の焦げる音と臭いが鼻をつく。
「社会の役に立たせろ! 真壁! ほら、あそこだ! あの嫌がってる女の子にしつこくナンパしてる奴ら! あいつらの上に落ちろ!」
課長が指差した先では、酔っ払った男たちが街灯の下で女性を追い回していた。
「いいか、飛び降りるなら人の役に立て! 馬鹿者! 今日からお前が飛び降りるのはあっちのビルだ! 真壁、コイツを連れていけ!」
「あ、はい……行きましょうか……?」
真壁は、課長のドブのような息を浴びながら、首根っこを掴まれて半泣きになっている地縛霊の腕を引いた。地縛霊は、課長のあまりの理不尽な圧迫教育に完全に屈し、「はい……これからは、人の役に立ちます……」と虚ろな声で呟いている。
翌日からのそのビルは、いわゆる「ナンパのメッカ」として有名だったはずが、なぜか連日、屋上から凄まじい衝撃音と轟音が響き渡り、通行人が次々と路上で吐き出すという奇妙な現象が多発した。あまりの事態に、ナンパ師たちは寄り付かなくなり、ビルはあっという間に買い手がつかず、投げ売り状態にまで追い込まれた。
そして、その次のビルの所有者から「屋上に何かが住み着いている」と通報が入り、現場に駆り出された真壁の姿があった。
市役所の地下、幽霊社会復帰課に戻ったとき、真壁は課長の腕元を見てギョッとした。
課長の左手首に、鈍い光を放つロレックスのデイトナが鎮座していたのだ。
課長は、そのデイトナを見せびらかすように手首を回転させ、深く煙草をふかした。栞さんはその横で、満足げに業務用のシュレッダーに新しい書類を放り込みながら、冷ややかに微笑んでいる。
(……この時計、地縛霊の稼ぎ……いや、社会貢献料のキックバックなのか……?)
真壁は、辞表を出すタイミングを完全に逸したことを悟り、また明日もママチャリを漕ぐ自分の未来をぼんやりと見つめていた。
地獄の公務員生活は、まだまだ序章に過ぎなかった。




