地獄の新学期2
「……つっ、冷たぁぁぁあッ!?」
顔面に強烈な炭酸とレモンの酸味、そして強烈なアルコールの臭いを浴びせられ、真壁は跳ね起きるようにして意識を取り戻した。
気がつけば、自分は事務室の来客用ソファに寝かされていた。顔を拭いながら周囲を見渡した真壁は、その瞬間、自分の視覚を疑った。
そこは、先ほど以上の地獄だった。
オフィス一帯の壁は拳や蹴りの痕で穴だらけ。真壁のデスクは、何かの衝撃で完全に中央から真っ二つに崩壊している。
そしてその中央で、顔面アザだらけ、服はボロボロに引き千切られてブラジャーの紐や下着が少し見えてしまっている二人の修羅──鬼怒川烈子と聖性子が、なぜか楽しげに談笑していた。
その傍らでは、栞さんがメガネのレンズにバキバキにヒビが入ったまま、何事もなかったかのようにカタカタと事務作業を続けている。
(なんだ、この地獄は……? 僕は死んで三途の川の関所にでも来たのか……?)
「もう性子ったらぁ、毎回よくこんな陰湿な贈り物を考えるんだから〜。カラスの死骸とか、処理する私の身にもなりなさいよ」
「あらぁ烈ちゃんこそ、毎回お休みのお土産の発想が斜め上なのよ〜? 海に行ったって聞いたのに、龍が巻き付いた剣のキーホルダーをウチの課の人数分とか、脳みそのシワの溝にまでニコチンが堆積してるんじゃないの?」
アハハ、ウフフ、と女子高生のようにキャッキャしているように見えて、二人の間からは未だにパチパチと漆黒の火花が散っている。一触即発。その笑顔の裏にある狂気が、真壁の胃を雑巾のように雑に絞り上げていく。
「で? 何の用なわけ? 嫌がらせのためだけにわざわざ午前中から私の眠りを妨げに来たわけ?」
烈子課長がレモンサワーをストローで吸いながら睨みつける。
「あらぁ、久しぶりに烈ちゃんとハッスルし過ぎて忘れてたわ。──あの子……名無し様、成仏したわよ? それを伝えに来ただけ」
裾を払い、ボロボロになった法衣を整えながら、聖課長がすんなりと立ち上がった。
その言葉を聞いた瞬間、烈子課長の動きがわずかに止まる。
「……そうか」
烈子は短くそれだけ言うと、新しいタバコを取り出して火をつけ、空になったレモンサワーのアルミ缶を真壁の後頭部めがけて投げつけた。カン、と乾いた音がして真壁の頭にクリーンヒットするが、今の真壁に文句を言う元気はなかった。
「報告はそれだけよ。じゃあね」
薄笑いを浮かべたまま、部屋を出ていこうとする聖課長。その背中に向けて、鬼怒川烈子は、タバコの煙と一緒にボソッと小さな呟きを漏らした。
「……世話になったな」
それは、いつもの粗暴な彼女からは想像もつかない、どこか不器用な感謝の言葉だった。
聖課長はピタリと足を止め、わざとらしく手を耳に当てて振り返る。
「あらぁ? 聞こえないわぁ? 烈ちゃん、もう一度言ってくださらない?」
「うるさいボケ!! とっとと屋上のバラック小屋に戻れ、この淫売がぁッ!!」
「はいはい、帰りますわよ〜。こんな所に長くいたら、受動喫煙で肺が腐り落ちてしまいますもの」
最後までお互いに罵声を浴びせ合いながら、聖課長は今度こそ部屋を出て行った。
「クソが……」
烈子課長は忌々しそうに毒づきながら、早くも本日4缶目となる新しいレモンサワーをズズズと啜り始める。
飛び散ったカラスの羽やお茶の汚れを片付けながら、栞さんが課長にふっと微笑みかけた。
「今日はお二人とも、随分と機嫌が良いようですね?」
「うるせぇ……」
そっぽを向く烈子課長。だが、その口元はわずかに、本当にわずかに「笑顔」のような形を結んでいた。
「あら?」
ふと、栞さんがソファの脇の床に落ちているものに気づいた。
「聖課長、数珠を忘れていますね」
「あん? あの色ボケ、本当に脳みそまで桃色だな」
烈子課長はパッと真壁を指差した。
「おい真壁! 社会勉強だ! 屋上の成仏課に行って、あのボケナスホルスタインにこれ返してやってこい!」
「え? 僕ですか!?」
真壁は全力で顔を引かせた。
「いや、普通に怖くて嫌なんですけど……あの人、目が笑ってないし、また巻き添えで殴られそうだし──」
「あ゛?」
「あ、行きます行きます行きます!!」
真壁の言葉が途中で裏返った。
「嫌なんですけど」と言いかけたその瞬間、烈子課長の手が、なぜか壁にインテリアとして掛けられている「本物の日本刀」の柄へと滑っていくのを、真壁の生存本能が見逃さなかったからだ。
「最初から元気よくいけ! このボケカスがぁ!!」
「は、はひぃぃぃぃ!!」
真壁は栞さんからひったくるようにして数珠を受け取ると、崩壊した事務室から逃げるように飛び出した。
地下のどんよりとした空気から、階段を駆け上がり、最上階のさらに上──市役所の屋上へと向かう。そこには、聖課長が統括する『成仏課』の根城である、怪しげな木造のバラック小屋が待ち受けているはずだった。
「なんで僕ばっかりこんな目に……うぅ、夏休み明け初日から命が足りないよぉ……!」
涙目で数珠を握りしめ、真壁は新たなる地獄(屋上)へと向かって、全力で足を進めるのだった──。




