地獄の新学期1
1ヶ月という、国家公務員としては異例中の異例である長期夏休み(実態はバカンス先での強制労働)を終え、真壁霊は重い足取りで市役所の地下へと降りていた。
「はぁ……またあの地獄の日々が始まるのか……」
どんよりとした気持ちで『幽霊社会復帰課』の薄汚れた扉の前にたどり着いた真壁は、その足元にぽつんと置かれた、妙にずっしりとした段ボール箱に気づいた。宛名はない。
「ん? なんだろうこれ。備品の支給かな?」
ガムテープを剥がし、何気なく箱のフラップを開けた──その瞬間、真壁の心臓が跳ね上がった。
「ひぃっ……あ、あああああああ!!?」
箱の中にミチミチに、それこそ隙間なく詰め込まれていたのは、何十羽ものカラスの死骸だった。どす黒い羽、虚ろなガラス玉のような目、凝固した血の臭い。
真壁はその場にへたり込み、涙目で頭を抱えた。
「う、嘘だろ……っ! 嫌がらせ!? どうせま課長に私怨や恨みのあるヤバい人の犯行だよぉぉーー!! 」
──ガンッ!!!
「あべっ!?」
突如、脳天に隕石でも落ちてきたかのような衝撃が走り、真壁は床に顔面を叩きつけた。あまりの痛さに涙が引っ込む。
恐る恐る振り返ると、そこにはアロハシャツの上からいつものヨレヨレの黒スーツを羽織り、殺気立った目で自分を見下ろす鬼怒川烈子課長の姿があった。
「誰が怨恨のデパートじゃコラぁ……」
「か、課長……!? ま、まだ午前中なのに、なんで起きてるんですか……!? え、夢……?」
いつもなら13時過ぎまで死んだように寝ているはずの怪物が、午前中に行動している。その恐怖の光景に真壁が現実逃避した瞬間。
──ガンッ!!!
「ぎゃうんっっ!?」
間髪入れずに二発目のゲンコツが落とされ、真壁は完全に膝から崩れ落ちた。さらにトドメと言わんばかりに、烈子課長の容赦ないミドルキックが真壁の顎へとクリーンヒットする。
「ぶふぉっ!?」
サッカーボールのように蹴り飛ばされた真壁は、先ほどの段ボール箱へと頭から突っ込んだ。勢いで箱がひっくり返り、廊下一面にカラスの死骸が「ボトボトボトッ!」と派手に散乱する。
「おぇええええええ!!? きたないっ、血が! カラスの血が僕の服にぃぃ!! 課長、何するんですかァァ!」
真壁が這いつくばりながら絶叫するが、烈子課長はそれを完全に無視。
「チッ、朝からうっさいハエが鳴いてんな」
烈子は室内にドカドカと入ると、口にタバコを2本まとめて咥えて火をつけた。そして、デスクの上に直に敷かれたマイ畳の上にどかっと膝を立てて胡座で座る。手にはお馴染みのレモンサワー。それをなぜかストローで不機嫌そうにズズズ……と啜り始めた。午前中からアルコールをキメるその姿は、完全にただのアル中である。
その横では、バカンス明けだというのに相変わらず涼しい顔をした栞さんが、1ヶ月間溜まりに溜まった膨大な事務仕事を淡々と始めていた。パチパチとキーボードを叩く音だけが室内に響く。
「うぅ……最悪の新学期だ……」
真壁は涙目で鼻血を拭いながら、ゴミ袋とほうきを手に、廊下に散らばったカラスの死骸を片付け始めた。その時、地下へと続く階段から、カツン、カツンと静かな足音が響いてきた。
「あらぁ、どうやら私の荷物は無事に届いたようねぇ?」
凛とした、鈴の鳴るような美しい声。
真壁が顔を上げると、そこに立っていたのは、純白の法衣を身にまとった清らかな女性だった。透き通るような肌、優しげに細められた瞳。復帰課とは犬猿の部署である『幽霊成仏課』の聖課長だった。
「あ、聖課長……! おはようございます……」
「あらあら、悪臭メスゴリラのしもべの……ええと、ま、マキャベリくん?」
「真壁です」
「そうそう、真壁君ね?」
聖課長は聖母のような微笑みを浮かべたまま、すたすたとおぞましいカラスの散乱する廊下を歩み寄り、真壁の身体を正面からぎゅっと抱きしめた。
「……っ!?」
柔らかい感触と、法衣の奥から漂うお香の甘い香りが真壁を包み込む。豊かな胸が真壁の胸板に押し付けられ、思わず童貞の心臓が爆発しそうになる──が、真壁の身体は歓喜ではなく、恐怖でガタガタと震え出した。
至近距離で見る聖課長の目の奥──ハイライトが、完全に消えていた。どろりとした漆黒の闇がそこにある。
「ねぇ真壁君? 私から烈ちゃんへの、心のこもった親愛のプレゼントを……なんでそんな薄汚いゴミ袋に入れようとしてるの? ねぇ? ねぇ……? 教えてくれるかしら?」
(ひぃっ……! 怖い、怖い怖い! この人も見た目に反して、課長と同族の修羅なんだよ! ちびりそう……!!)
その時、オフィスの奥から畳を激しく蹴る音がした。
「やっぱりお前だったか! 聖!! このボケカスの売女がぁ!!」
烈子課長が猛烈な勢いでドアを蹴破って現れた。タバコを咥えたまま、聖課長を指差して吠える。
「ワシのしもべを色目でたぶらかしおって!離さんかいッ!! その薄汚い身体から梅毒が感染るだろぅがッ!!」
聖課長は真壁を抱きしめたまま、おほほ、と上品に口元を隠して笑った。
「あらあら? どこからかしら、アポクリン汗腺が完全に詰まりきっているような、ドブネズミ以下の悪臭がしますわね? 烈ちゃん、少しは身体を洗われたらどうかしら?」
「おぉん!? もういっぺん言ってみろ、このアマ!! その締まりのねぇ股にドロドロの鉛流し込んで、二度と男を咥え込めないようにしてやろうかァッ!?」
「あらあら、恐ろしい。逆に私は、その、あまりに使わな過ぎて砂漠みたいに乾燥して癒着しちゃってるんじゃないかと思うお股を、牛裂きの刑にして中身を確かめてあげたいわよぉ?」
地下の廊下が、一瞬で一触即発のガチンコ修羅場と化した。飛び交うワードが下劣すぎて真壁の耳が腐りそうだ。
「し、栞さん……! アレ、止めなくて良いんですか!? 殺し合いになりますよ!?」
真壁がオフィス内の栞に助けを求める。しかし、栞さんはパソコン画面を見つめたまま、冷静に言った。
「聖課長の成仏課は基本的に休みが少ないですからね。我が課が1ヶ月もの有給休暇を消化したのがよほど気に入らなかったのでしょう。休み明けにはいつもあのように、愉快な贈り物をくれるのですが……今回はそれがこのカラスだったわけです」
栞さんは、足元に落ちていたカラスの死骸の首をムンズと握りしめ、愛おしそうに見つめた。
「それと真壁さん。早く二人を止めてください。なるべく早く。……これ以上騒がれると、私の事務仕事の邪魔になります」
「えぇっ!? 僕が止めるの!?」
デジャヴだった。前にもこんな理不尽な板挟みがあった気がする。しかし、このままでは本当に市役所が崩壊する。真壁は意を決して、お互いに掴みかかろうとしている両課長の間に割って入った。
「ま、まぁまぁ、二人とも落ち着いて……ってブギャッ!?」
ドンッ!!! と凄まじい肉声の破裂音が響いた。
烈子課長の怒りの乗った渾身の右ストレート。
そして、聖課長の法衣を翻した電光石火の左ストレート。
その二つの破壊力が、制止に入った真壁の左右の頬へと同時に、かつ寸分の狂いもなく完全にシンクロして突き刺さったのだ。
左右から挟み込まれた凄まじい衝撃。行き場を失った莫大なエネルギーは、真壁の頭部を上下へと無理やり引き伸ばし、その顔面をモアイ像のように変形させた。
「あ……が……」
白目を剥いた真壁は、そのままゆっくりとカラスの山の上へと倒れ込み、意識を失った。
(……これ……労災……降りるかな……)
真壁の意識が深い闇に落ちる中、二人の女傑の罵り合いは、さらに激しさを増していくのだった。




