社会復帰課の長い一日3
はっと我に返った鬼怒川課長はオイル切れのジッポーを壁に叩きつけると、ボロアパートの薄い壁にスポンと穴が開き、ジッポーもヒンジからバラバラになって飛び散った。
「チッ、使えんのぅ」
課長は仕方なく、手刀の摩擦熱で防水マッチに直接火をつけ、タバコに火を移して紫煙を深く吸い込んだ。時計の針は十五時半。どうやら三十分間も、自分の握りっ屁によるフレーメン反応でドラ猫のように白目を剥いて固まっていたらしい。
「しゃあねぇ、風呂でも入るか……めんどくせぇなぁ」
数分後、ハイツ阿鼻叫喚A棟の狭いユニットバスから地鳴りのような怒号が響いた。
「泡立たん! クソが! この安物ボディソープがぁ!!」
課長がイラつきのままに壁を殴るたび、築四十年の木造アパートは震度四クラスの揺れに見舞われ、隣室の住人が静かに部屋を飛び出していった。
なんとか全身の汚れを洗い終わり、脱衣場で手拭いを股間から背中に向かってスパァン! スパァン! と鞭のように叩きつけて水気を飛ばす。
そうして生まれたままの姿、湯上がり全裸スタイルで堂々と部屋に戻った課長の前に、異様な光景が広がっていた。六畳一間の狭い部屋に、狩衣に身を包んだ男たちが五名、呪符、日本刀、そしてなぜかトゲ付きのモーニングスターを構えてギチギチに待ち構えていたのだ。
カーテンが閉まった薄暗い部屋で、男たちと、湯気立つ全裸のメスゴリラが静かに視線を交錯させる。
「お、お、お、おどれら……。いくらワシが眉目秀麗、頭脳明晰、文武両道のチャーミングな女神と言えども、白昼堂々の押し入りはファンとしての規約違反じゃろがい!! 殺すぞ?」
「ひっ……!?」
風呂上がりの無防備な女を襲うはずだった。タオルで体を隠して震え、命乞いをする、か弱い標的を、数の暴力で圧倒して連盟の恨みを晴らす──そんな浅はかな勝利を信じた自分たちが、とてつもないバカだった。
目の前に立っているのは、羞恥心という概念を母親の胎内に置いてきた地獄の獄卒を統べる鬼神だった。
一切の無駄がない鍛鉄のような筋肉、数々の修羅場を物語る傷だらけの肉体、そして一切の凹凸を拒絶する完璧なまな板状の胸。
『あの瞬間のことは、今でも夢に見ます』
のちに奇跡的に生き残った刺客の一人は、ガタガタと震えながらこう語った。
『彼女は一切の躊躇なく私の両目に指を突き立てて視界を奪うと、私の体をボーリングの球のように抱え、ベランダのガラス窓ごと外の道路へと放り投げたのです。もう光を拝むことは叶いませんでしたが、私のあとに同胞たちが次々と地面に激突する、生々しい音が聞こえてきました……』
ドスン! べチャッ! と、二階の部屋から一人、また一人とうめき声と共に刺客が道路へと投げ出されていく。
部屋の内部からはゴパァッ! ズガァッ! という凄まじい肉体破壊音が連続して響き、やがて悲鳴すら聞こえなくなると、道路に倒れる一人の近くに、原型を留めていない肉魂がドサリと降ってきた。
これで四人。あと一人、誰でもいいから逃げてくれ。生き延びて、このアパートに存在する生きた天災の惨状を、芦尾様に伝えてくれ、頼む、ブギィッ!!!
「あぁ。手遅れかもしれませんね」
瀕死の刺客の顔面を、お洒落なピンヒールで無慈悲に踏みつけながら、此花栞さんは冷ややかに呟いた。
ちょうどド派手な公用車で乗り付けたばかりの彼女は、眼鏡をクイっと指で直すと、割れたガラスと血の海と化した課長の部屋へと、ため息をつきながら階段を駆けていくのだった。
「最後に見た光景がワシの裸なんて、地獄の閻魔様に良い土産話が出来たのぅ? おぉ!? このデバミシシッピーアカミミガメがぁぁぁああ!!」
「そこまでです、課長!」
トドメの一撃として、課長の岩石のようなハンマーフィストが最後の刺客の脳幹へと振り下ろされる直前──駆けつけた栞さんが、玄関から間一髪で対怪異用の特殊高強度ワイヤーロープを投げ放った。ロープは意思を持つ蛇のように課長の逞しい腕に巻きつき、その動きを物理的に拘束する。
「く、くそっ! 離さんかい栞!! どういう了見じゃい! 栞!きさん!、ワシを遮るならそのメガネもろとも粉々に叩き割るぞ、あぁん!?」
「課長、落ち着いてください。これを!」
怒り狂う全裸のメスゴリラを宥めるため、栞さんは一切の躊躇なく、鞄から取り出した特製『スピリタスベース・アルコール度数四十度』の超高濃度ストロングレモンサワーを、課長の口へとダイレクトにねじ込んだ。
「む、ぐ、きゅ……ぷはぁっ!! ──おう? 風呂上がりには、やっぱり栞の作った業の深い酒が一番体に染みるのう。……あ? なんだコイツら、まだ生きて居たのか? 汚らわしい、去ね!」
「は、はひぃぃぃぃぃぃっっ!!」
課長に馬乗りで滅多打ちにされ、ギリギリで命を繋ぎ止めていた最後の男は、解放された瞬間に這いつくばるような動きでベランダから飛び降りた。そのまま道路に転がっていた半死半生の仲間四人を必死に車へと詰め込み、スキール音を立てて猛スピードで逃走していった。
「おい栞、本当にええんか? あいつら、完膚なきまでに肉塊にせんと、また面倒な嫌がらせをしてくるぞ?」
「大丈夫です。彼らが私達の隙を突いて個人情報を盗むために『式神』をこっそり貼り付けてきたのに対して、私は全員の服の裏に軍用の小型発信機(GPS)をしっかりと取り付け済みですので」
栞さんはそう淡々と言いながら、壁にかけてある課長の上着からピッと張り付いていた式神を引き剥がし、タバコの火でじりじりと焼き尽くした。
「おう、流石はワシの有能な栞じゃい! それじゃあ準備万端、速攻で御礼参り行こうかい!」
「ええ。私がバックアップに就いていますので、存分にどうぞ」
「おう! 久々に骨の髄まで鳴るのぅ、ワシの拳がよォ!」
「待ってください!!」
そこへ、部屋の割れたガラス窓を飛び越えて、涙目で顔を真っ赤にした聖魔子が突入してきた。
「き、きっと、真壁君は、あの陰陽師たちに……」
「ええ。十中八九、囚われて私達に対する人質にされているでしょうね」
「助けなきゃ……っ! 私のせいで……私が一緒に着いてたのに……うわぁぁぁぁん!!」
魔子はその場にしゃがみ込み、大粒の涙を流して泣き出してしまった。
その泣き顔へ、ピシャン、といつもよりはだいぶ手加減された、だが乾いた音が響くビンタが炸裂した。
「バカやろう、こんのやろぅ……あ? ふぅ、ひくっ! じぶんの……じぶんの男が攫われたんらろ? 泣いてないで、さっさと助けにいくんじゃが、いい……!」
「え……? 鬼怒川課長さん……? なに……?」
魔子は頬を押さえながらぽかんと呆気にとられた。
「解説します。課長はお風呂上がりに四十度の特製サワーを一気に飲み干して大変ご機嫌ですので、少し呂律が回っていませんが、『ガタガタ抜かしてねえで着いて来い、我が物顔で日曜を汚した変態どものキャンタマを一人残らず右から順に割って回るぞ!』と仰っています」
「うん! ──じゃなかった、はい! 幽霊成仏課・聖魔子!喜んでお手伝いします!!」
「いよっひゃあ!! 全員、くりゅまに乗り込めぇい!!」
課長はパンイチの上にヨレヨレのスポーツブラと、これまたヨレヨレな上着だけを羽織ると、そのまま外へと飛び出した。
向かうは、発信機が示す日本陰陽師連盟・関東支部。
本日の天気予報は、局地的な「鉄拳の豪雨」
逃げて!芦尾道男。そして耐えろ、真壁君。
君のもとへ向かっているのは「ヒーロー」ではない。怒り狂い、酒の回った地獄の悪鬼羅刹そのものである。




