社会復帰課の長い一日1
日本陰陽師連盟が裏で血涙を流しながら暗躍し、復讐の炎を燃やしていることなど、幽霊社会復帰課の面々はつゆほども知らなかった。
今日は待ちに待った日曜日。平日に理不尽な暴力を振るう側も、それを全身で受け止める側も、皆それぞれ一時の休日を満喫していた。
◇鬼怒川烈子の休日 午後十五時
西日が差し込む薄暗い自宅の六畳一間で、鬼怒川烈子課長は寝癖だらけの頭を豪快にかきむしりながら、ノソリと起き上がった。
服装はトランクス一丁。しかし、そのあまりにもはしたない姿は、床に転がる空き缶や折れ曲がったストロー、山積みの週刊誌といったゴミの山が、まるで計算された芸術のように我々観測者の視界を絶妙に遮っているため、奇跡的に最悪の事態だけは免れていた。
烈子課長は大事なところをボリボリと音を立てて掻きむしると、ブッと部屋の空気を震わせるような重いオナラを一発放った。そしてそれを素早く手で掴んで鼻先へと持っていき、自らの握りっ屁を嗅いで、馬のように唇をめくり上げフレーメン現象を起こしていた。
◇此花栞の休日 午後十五時
街の喧騒から少し離れた、緑あふれるお洒落なカフェテラス。
此花栞は、白を基調とした洗練された席に腰掛け、上品に英国製の紅茶と季節のタルトケーキのセットを楽しんでいた。その優雅な姿は誰もが振り返るオフィスレディそのものだったが、彼女が手元のスマートフォンで真剣に行っていたのは、これまでに様々な技術を駆使して撮影してきた、鬼怒川課長の寝顔や食事風景の写真のフォルダ分け作業であった。
◇真壁霊の休日 午後十五時
心地よい川風が吹き抜ける河原の遊歩道を、真壁霊はガールフレンドである聖魔子と二人並んで歩いていた。
「ま、魔子ちゃん、今日の服、すごく可愛いね」
「べ、別に真壁くんに見せるために選んだわけじゃないんだからね! たまたま、呪具を隠すのに最適なポケットが付いてただけよ!」
二人の間には相変わらず、手をつなぐことすら躊躇うような、あまりにもプラトニックな甘酸っぱい空気が流れていた。
だが、そんな二人の後方十メートル。生い茂る草むらの中から、両手に木の枝を持って完全に隠れているつもりでストーキングしている影があった。魔子の母親であり、幽霊成仏課の課長でもある聖性子である。
(あぁ、もう! なんで早く押し倒さないのかしらぁ! 魔子も真壁君も奥手過ぎて、見ている私の股間の疼きが全然収まらないわぁ〜ん!!)
性子課長は息を荒くして身悶えすると、限界を迎えたのか、たまたま近くを通りかかっただけの見ず知らずの通行人のイケメンの手をガシッと掴み、そのまま有無を言わせぬ腕力で近くの公衆便所の中へと引きずり込んでいった。
◇
「ふふふ……ははははは! このタイミングを、私はずっと待っていたのだ!!」
そんな三者三様の限界突破した休日を過ごす彼らを、遠方のビルの屋上から双眼鏡で監視している男がいた。
男の名は芦尾道男。あの歴史に名高い大陰陽師・蘆屋道満から数えて正統なる四十二代目の陰陽師であり、連盟に四千二百万円という恐るべき賠償金を請求してきた幽霊社会復帰課への復讐に、その身を捧げた狂気の鬼であった。
「あの忌まわしき幽霊社会復帰課の三馬鹿トリオが、完全にバラバラになるこの瞬間をな……! 各個撃破こそ戦術の基本。まずは、最も御しやすく、最も高い霊感を持つあの若造(真壁)から、じっくりと絶望のどん底に叩き落としてくれるわ!!」
道男は邪悪な笑みを浮かべ、懐から通信用の呪符を取り出した。
しかし、彼がこれから足を踏み入れる戦場が、ただのプラトニックなデートスポットではなく、別の意味で完全に狂った戦場であることに、この時の芦尾道男はまだ気づいていなかった。
「ふふふふ、これより我が日本陰陽師連盟の選りすぐりの刺客達が奴らに襲いかかり、締めて五千二百万円……いや、矢部の治療費と慰謝料も含めて五千二百三十万円はきっちりふんだくってやるのだ! ふははははは!!」
ビル屋上からの道男の負け犬の遠吠えのような高笑いが響く中、刺客たちの第一波はすでにターゲットを捕捉していた。
◇
公園の広場にある木製のベンチ。
真壁と魔子は並んで腰掛け、魔子が今朝早起きして一生懸命作ったというお弁当を広げて、のほほんとした時間を過ごしていた。
「美味しいよ! 魔子ちゃん、この卵焼き最高!」
「べ、別にアンタの好みに合わせて甘い味付けにした訳じゃないんだからね! でも……まぁ、良かった。ずっと後ろをつけてきてたお母さんも、なんか急に飽きたのかどっか行っちゃったしね」
「うん、あれは本当に怖かったよ……。ハイライトの完全に消えた目で、季節外れの木の枝を両手に持って茂みに隠れてる聖課長は、うちの鬼怒川課長とは全く別のベクトルで夜道に出会いたくない怖さがあるよ!」
「ふふ、でしょ?」
二人の間に、それまでの緊張が嘘のような、とても柔らかくて甘酸っぱい青春の時間が流れていく。真壁の心臓の鼓動が、お弁当の美味しさと魔子との近さで少しだけ早くなる。
だが、その平穏は一瞬で切り裂かれた。
「真壁君、退がって!!」
「プゲェッ!?」
急に魔子が立ち上がったかと思うと、真壁の胸をものすごい力でベンチごと後ろへと押し倒した。情けない声を上げながら、真壁は後頭部から派手に芝生の上へと転がっていく。
「いてて……」と涙目で頭をさすりながら前方を確認すると、そこにはいつの間にか、時代錯誤な狩衣を身にまとった三人の見知らぬ男たちが不気味に立ちはだかっていた。
「誰だ! ヴァチカンの手の者か!? それともロシア正教会の刺客!?まさか?!アーネンエルベ(SS先史遺産研究所)の残党?!」
魔子が素早く二本の呪物ナイフを引き抜き、鋭い構えを取りながら、どう見ても和風な男たちに向かって完全に的外れな海外組織の名を叫んだ。
「魔子ちゃん、違うと思うよ? どこからどう見ても和風だよ、ガチの陰陽師スタイルだよそれ!?」
芝生に転がったまま真壁が必死に訂正を入れる。
「あ? もう、私ったら! テヘペロね! ……じゃなくて!! なんでいっつも真壁君と良い雰囲気になると、決まって邪魔が入るのよ!! 私を幽霊成仏課の隠し兵器(自称)、聖魔子と知っての狼藉? どうせ、そこの貧弱なハダカデバネズミが狙いだとは思うけど!」
中央に立つ一番ガタイのいい男が、冷酷な笑みを浮かべて一歩前に出た。
「左様。我らの標的はそこな霊感だけの若者の身柄。小娘よ、用が無いならとっとと、あそこの公衆便所で昼間から破廉恥で卑猥な声を上げている母親を連れて、大人しくお家に帰りなさい」
その言葉に、魔子はハッと目を見開き、数十メートル先にある公衆便所へと視線を向けた。そこからは確かに、ベテラン熟女特有の艶めかしい声が漏れ聞こえてきている。
「え……? お、お母さん、またやってるの!? もう!! だから新しいお父さんは要らないって言ってるのにぃー! バカーーーー!!」
魔子はナイフを構えていたことも完全に忘れ、顔を真っ赤にして脱兎の如く公衆便所へと走り去ってしまった。家庭の事情の闇が深すぎる。
「あ……魔子ちゃん? おーい、置いてかないで……?」
一人取り残された真壁は、冷や汗をだくだくと流しながら、目の前の凶悪な刺客三人を見上げた。
「あの……すみません。ツレが急用で行っちゃったので、その、僕も今日はもうおうちに帰っても良いですかね……?」
ガシッ。
「ですよねーーーーーっっ!!! 助けてぇぇぇえええ!!! 魔子ちゃーん! 栞さーーーん! 鬼怒川課長ォォォオオオおぉぉ!!」
有無を言わせぬ力で襟首を強引に掴み上げられ、真壁の本日一番の情けない悲鳴が、日曜日の爽やかな河原の公園に、虚しく響き渡るのだった。
◇その頃、お洒落なカフェテラス
此花栞さんはお気に入りのダージリンティーを最後の一滴まで飲み干すと、カチャリと繊細な音を立ててカップをソーサーに優しく置き、シルクのハンカチで静かに口元を拭った。その洗練された一連の動作は、周囲の誰もが思わず見惚れて振り返るほどの美しさだった。
しかし、その怜悧な瞳の裏で考えていたことは、およそ休日らしからぬ極めて不穏なシミュレーションだった。
(さっきから見られている。人数は二人。一人は気配の隠し方も知らない無能。もう一人は微かに霊素の臭いがする……陰陽師かしら。日曜日を狙って私だけをターゲットにするなんて非効率なことはしないはず。ということは、今頃あの無防備な真壁さんは、あんなことやこんな目に遭って泣き叫んでいる頃ね……くふっ……。あ、いけない、笑っちゃダメね)
栞さんはいつものポーカーフェイスを崩さぬまま、鞄から手鏡を取り出し、少しだけお化粧を直すフリをして背後の刺客を確認した。その一切の無駄がないスマートな索敵は、冷戦時代を生き抜いた凄腕の女スパイもかくやというプロのそれであった。
「ごちそうさまでした」
伝票を手に取った栞さんは、手鏡を鞄に仕舞い込みながらすっと立ち上がると、迷いのない足取りでツカツカと背後の観察者たちへ歩み寄った。
そして、間髪入れずにそのうちの一人の顔面を、コンパクトな右ストレートで正確に撃ち抜いた。
「ぶふぇっ!?」
激しい衝撃音と共に男が吹っ飛ぶ。栞さんの華奢な拳には、手鏡を仕舞い込んだ刹那に装着された、チタン合金製のお手製凶悪ナックルダスターが鈍い光を放ちながらガッチリと嵌め込まれていた。
日曜日の爽やかなカフェテラスで狩衣という極めて浮いた格好をしていた陰陽師の刺客は白目を剥いてそのままコンクリートの床へと沈み込み、大きく二度痙攣してからピクリとも動かなくなった。
栞さんはナックルを素早く鞄に隠すと、もう一人の怯える刺客に向けて、その場にパッとへたり込んで叫び声を上げた。
「きゃー、ちかーん!」
それは、普段の彼女の有能さからは到底想像もつかないほどの、凄まじい大根演技であった。感情の起伏がゼロの、完全に棒読みの悲鳴。
しかし、そんな大根演技であっても、誰もが振り返る美人な眼鏡っ娘OLの「チカン」というSOSワードの破壊力は凄まじかった。
「おい、テメェ何やってんだ!!」
「日曜日のお洒落カフェでチカンだと!?」
「おいお前ら、あの野郎を囲め!!」
テラス席や周囲を通行中だった正義感(と下心)に溢れるたくさんのメンズたちが、怒りに目を血走らせ、指の骨をパキパキと鳴らしながら、残された一人の刺客へと蟻のように群がっていく。
「ち、違う! 俺は陰陽師の刺客で──ぶふぇっ!?」
そんな男の必死の弁明と怒号の騒動に、栞さんはすっと背を向けて立ち上がり、何事もなかったかのように衣服の埃を払った。
「さて……。真壁さんの命の安否はとりあえず置いておいて、寝起きで機嫌の悪い課長が目覚めの一発で刺客を文字通り『SATUGAI⭐︎』してしまう前に、止めねばなりませんね」
栞さんは路肩へ歩み出ると、ツッと綺麗な所作で一台のタクシーをスマートに呼び止めた。
「運転手さん、市庁舎の地下駐車場まで。あ、領収書の宛名は『日本陰陽師連盟』で、支払いはすべてあちらへ着払いでお願いします」
「へ? あ、はい……?」
戸惑う運転手を急かし、栞さんを乗せたタクシーは急加速で走り去る。理不尽な復讐劇の裏で、日本陰陽師連盟の経理部には、またしても不条理な請求書が蓄積されつつあるのだった。




