第18話 少し残りなさいと言われた時点で、静かに帰れるとはもう思っておりませんわ
やはり、静かには終わりませんのね。
レオノーラは心の中でそう結論づけながら、帰り支度の手を止めた。
教室の空気が微妙に変わる。
すでに席を立っていた生徒たちも、一瞬だけ足を緩めた。
だが一組の生徒は、そのあたりの空気を読む訓練が行き届いているらしい。露骨に見はしない。見はしないが、確実に耳は残している。
「……わたくしだけですの?」
レオノーラが尋ねると、マグダ教員は名簿を閉じながら頷いた。
「ええ、あなたのみです」
やめてくださいまし。
そういう言い方は、余計に周囲の想像を刺激いたしますわ。
だが、もちろん口にはしない。
「承知いたしましたわ」
レオノーラは淡々と答えた。
アーネストが前の席から半ば振り返りかけたが、リヒャルトがその肩を軽く引いた。
「行くぞ」
「いや、でも気になるだろ」
「気になるからこそ行くんだ」
実に正しい。
その理屈は前世でもよく分かった。
残って様子を窺うより、さっと引いた方が賢いことは多い。
アルベルトは立ち上がる時、レオノーラへ一度だけ視線を向けた。
「また明日」
「ごきげんよう、殿下」
短い挨拶だけで終わる。
それだけなのに、教室の何人かは妙に気にしている空気を出す。やめてほしい。
レティシアも少し心配そうにしたが、最終的には小さく笑って言った。
「ごきげんよう、レオノーラ様」
「ごきげんよう、フローレンス様」
やがて教室の扉が閉まり、完全に人がはけた。
残ったのは、マグダ教員とレオノーラだけである。
静かだ。
ようやく本当の意味で静かになった。
レオノーラは少しだけ肩の力を抜く。
「お座りなさい」
マグダ教員に促され、教卓前の席へ移る。
彼女は数秒、黙ってレオノーラを見ていた。
値踏みというより、整理するような視線だ。
この手の沈黙は嫌いではない。軽率に決めつける相手ではない、と分かるからだ。
「まず先に言っておきます」
マグダ教員が口を開く。
「今日呼び止めたのは、叱責のためではありません」
「そうでしたの」
「少し意外そうね」
「ええ」
レオノーラは素直に認めた。
「本日は、何かと目立っておりましたので」
「ええ。よく自覚しているようで何よりです」
少しだけ皮肉が混じっている。
だが嫌味一辺倒でもない。
「学院で過ごす以上、目立つこと自体は必ずしも悪ではありません」
マグダ教員は続ける。
「問題は、“どのように目立つか”です」
それは、クラウスと同じ整理だった。
レオノーラは背筋を少し伸ばす。
「あなたは今日の時点で、すでに一組の中でも特殊な立ち位置にいます」
「……はい」
「武芸棟での件。新入生代表。皇太子殿下との距離。婚約に関する空気」
最後の一つだけ、レオノーラは少し眉を動かした。
やはり教員にも伝わっている。
当然といえば当然だ。あの場で完全に隠し通せるはずもなかった。
「誤解しないように。私は詮索をしたいのではありません」
マグダ教員の声は落ち着いていた。
「ただ、あなた自身が、自分の立場を正確に理解しておく必要があると言っているのです」
「理解、ですの?」
「ええ」
マグダ教員は机の上で指を組む。
「あなたが静かに過ごしたいと思っていても、周囲はそうは見ません」
痛いところを突いてくる。
「あなたが意図していなくても、言葉一つ、視線一つで、周囲は意味を読み取ろうとします」
「……そうでしょうね」
「とくに一組はそういう場です。高位貴族、将来の重職候補、各家の後継。皆、情報に敏感です」
それも理解している。
前世とは違うが、構造は似ている。立場が高くなるほど、言葉はそのままでは受け取られない。意図と背景と利害で解釈される。
「あなたは本日、それをかなり早い段階で経験したはずです」
「はい」
レオノーラは静かに頷いた。
「でしたら、なおさら申し上げます」
マグダ教員の目がまっすぐ向けられる。
「レオノーラ・アルトヴァイスという生徒は、今後、“強い公爵令嬢”として扱われるでしょう」
レオノーラは少し黙った。
否定しようと思えばできた。
できたが、意味はない。
「それは、あまり望ましくありませんわね」
正直にそう答えると、マグダ教員はわずかに目を細めた。
「なぜ?」
「面倒だからですわ」
「率直ね」
「率直である方が、誤解が少ない場合もございますもの」
それには、マグダ教員も否定しなかった。
「では、質問を変えましょう」
「はい」
「あなたは今後、どう振る舞うつもりですか」
試されている、と思った。
だが同時に、これは悪い問いでもない。
教師として、問題児になりうる生徒を事前に見極めたいのだろう。しかもレオノーラの場合、その懸念はもっともである。
「まず」
レオノーラは考えを整理しながら言った。
「学院の規律には従います」
「ええ」
「武芸についても、学院が求める安全性を優先します」
「それも必要です」
「ただし、わたくし自身の鍛錬を止めるつもりはございません」
マグダ教員は小さく頷いた。
そこを濁さなかったのは良いと判断したらしい。
「そして」
レオノーラは続ける。
「わたくしは不要な衝突を望みません」
「不要な、ね」
「ええ」
「必要なら?」
そこを拾いますのね。
レオノーラは一瞬だけ言葉を選んだ。
「必要な一線は譲りませんわ」
教室が静かになる。
マグダ教員はしばらく何も言わなかった。
それから、ふっと息を吐く。
「なるほど。あなたの評判が、ただの派手好きや乱暴者のそれとは少し違う理由が分かりました」
「と申しますと?」
「あなたは戦いたがっているのではなく、退きたくないだけなのね」
その言葉に、レオノーラは少しだけ驚いた。
母にも似たようなことを言われた。
自分では脳筋的な合理性だと思っていたが、外から見るとそう映るらしい。
「……そうかもしれませんわ」
「ええ。たぶんそうです」
マグダ教員は断じた。
「だからこそ注意しなさい。そういう生徒は、周囲から“使える”と思われやすい」
レオノーラは眉をひそめた。
「使える?」
「ええ」
マグダ教員の声音は冷静だ。
「頼られることもあるでしょう。利用されることもあるでしょう。強い者、はっきりしている者、前へ出られる者。そういう人間には、自然と人が寄ってきます」
それは、少し嫌だった。
前世でも似たようなことはあった。
何でも対応できる人間は便利に使われやすい。本人にその気がなくても、“あの人ならやってくれる”が積み上がる。
「あなたは今のところ、それをまだ面倒だとしか捉えていないようだけれど」
マグダ教員は続ける。
「それ自体は悪いことではありません。むしろ健全です。自分を消耗品だと思わないことは大事ですから」
そこまで言ってから、少しだけ表情を和らげる。
「ただし、完全に避けることもできないでしょう」
レオノーラは静かに考え込んだ。
たしかに、もう完全回避の段階は過ぎている。
ならば必要なのは、“近づかせない”ことではなく、“近づき方を選ばせる”ことかもしれない。
「……勉強になりますわ」
「それは何より」
マグダ教員はそこで、少しだけ書類をめくった。
「もう一つ。来週の実力測定についてですが」
やはりそこへ戻る。
「あなたの試験は、通常組とは別評価になります」
「対人ではなく、標的中心ですの?」
「ええ、基本はそうです」
予想通りだった。
「ただし、それだけではつまらない……いえ、不十分ね」
今、つまらないと仰いませんでした?
レオノーラは思ったが、口にはしない。
「あなたには、“制御”を見せてもらいます」
「制御」
「ええ。正確には、出力調整、停止精度、空間認識、そして指示への即応です」
なるほど。
それなら納得できる。
学院側が知りたいのは、レオノーラが強いかどうかではない。強いのは、もうだいたい分かっている。問題はその強さが学院内で運用可能かどうかだ。
「承知しましたわ」
「随分と物分かりがいいのね」
「合理的ですもの」
「その“合理的”という基準を、今後も忘れないように」
レオノーラはそこで、少しだけ迷った末に尋ねた。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
「何かしら」
「わたくし、そこまで学院にとって厄介に見えておりますの?」
マグダ教員は一瞬だけ沈黙した。
それは否定を探している沈黙ではなく、どう答えるのが適切か測っている沈黙だった。
「厄介、というより」
やがて彼女は言った。
「放置できない、が正しいわね」
ずいぶん率直である。
だが、むしろありがたかった。
「学院は才能ある生徒を好みます」
マグダ教員は続ける。
「ただし、才能は管理できて初めて資産になります。あなたは今、その境目にいる」
レオノーラはその言葉を静かに受け止めた。
厳しい。
だが、筋は通っている。
「ですから、私は見ています」
マグダ教員の視線はまっすぐだった。
「あなたが“学院にとって扱いにくい問題児”になるのか、“扱いは難しいが有益な生徒”になるのか」
「後者でありたいですわね」
「でしたら、あなた自身がそれを証明しなさい」
会話はそこで終わりだった。
レオノーラが一礼して教室を出ると、廊下はすでに夕方の光に染まりつつあった。
人気もだいぶ減っている。
少しだけ、ほっとした。
今日も長かった。
だが、少なくとも一つは収穫があった。
マグダ教員は敵ではない。
厳しいが、筋の通る相手だ。
そして学院が自分をどう見ているかも、かなり明確になった。
つまり今後の方針はこうだ。
強さは隠しきれない。 ならば、制御できる強さとして認識させる。 問題児ではなく、扱いの難しい優等生を目指す。
面倒ではある。
だが、破滅回避のためと思えばやれないこともない。
「……結局、やることが増えただけですわね」
独り言を漏らしながら玄関ホールへ向かうと、迎えの馬車のそばでクラウスが待っていた。
「お疲れ様です、お姉様」
「ただいま、と言うにはまだ早いですわね」
「顔を見れば分かります。今回は叱責ではなかった」
「ええ」
「では、管理確認ですか」
相変わらず鋭い。
「だいたいそのようなものですわ」
「でしょうね」
弟はまるで当然のように頷いた。
「学院側も、お姉様を放置はできないでしょうから」
それを本人の前で即答するのは、いかがなものか。
「心外ですわ」
「ですが事実です」
クラウスは馬車の扉を開けながら続けた。
「で、どうでした?」
「思ったより筋の通る先生でしたわ」
「それはよかった」
「ただし、来週の実力測定は完全に“管理可能性の試験”ですわね」
「やはり」
「ええ。強さそのものより、制御と判断を見られます」
クラウスはそこで少しだけ真面目な顔になった。
「でしたら、お姉様向きです」
「そうかしら」
「ええ。お姉様は本質的には脳筋ですが、戦い方そのものはむしろ理詰めですから」
褒めているのか貶しているのか分かりづらい。
だが、方向性としては間違っていなかった。
馬車に乗り込み、屋敷への帰路につく。
窓の外には夕暮れの学院と、そこから離れていく石畳の道。
静かな学院生活。
その夢はたしかに遠のいた。
けれど、完全に終わったわけでもない。
少なくとも今は、どう目立つかを選ぶ余地がある。
それだけでも前進だ。
そう考えかけた、その時。
「そういえば」
クラウスがぽつりと言った。
「何かしら」
「父上が、夕食後に少し時間を取れと仰っていました」
レオノーラは嫌な予感を覚えた。
「……婚約の件ではなくて?」
「いえ」
クラウスは妙に淡々としていた。
「今日は別件だそうです」
「別件」
「ええ。どうやら」
弟はほんの少しだけ言いづらそうにしてから、告げた。
「ドワーフの鍛冶師たちから、お姉様宛てに手紙が来ているらしいです」
レオノーラは固まった。
ドワーフ。
鍛冶師。
この時期に。
嫌な予感しかしなかった。
「……何かしら、それ」
「さあ」
クラウスは肩をすくめた。
「ただ父上の顔を見る限り、あまり穏やかな内容ではなさそうでした」
やはり、静かには終わりませんのね。
レオノーラは本日何度目か分からないその結論を、静かに胸の内で繰り返した。




