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悪役令嬢のはずが、悪役になる前に剣聖になっていた  作者: 翡翠


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12/15

第12話 よりにもよって初日の教室で、その話題を出しますの?

 教室の空気が、止まった。


 いや、正確には止まっていない。

 誰もが息をしているし、椅子も軋むし、窓の外では鳥まで鳴いている。


 だがレオノーラには、世界が一瞬だけ完全に静止したように感じられた。


 婚約。


 その単語だけが、はっきりと耳に残る。


 やめてくださいまし。

 よりにもよって、初日の教室で。

 しかも周囲に人が残っているこの状況で。


 レオノーラは、淑女としての表情を保つために全力を要した。

 ここで露骨に動揺すれば、それだけで答え合わせになる。

 だからまず、呼吸。

 次に視線。

 最後に声音。


「……婚約、ですの?」


 どうにか、それだけを返す。


 白々しいだろうか。

 だが、ここで即答するよりはずっとましなはずだ。


 アルベルトはレオノーラを見ていた。

 試すような、探るような目ではない。

 むしろ、本当に確認しているだけの顔に近い。


 それが余計に困る。


 アーネストが珍しく口を挟まず、リヒャルトは明らかに眉間を寄せていた。

 レティシアは完全に状況が分からない顔だが、それでも何か大事な話題だということだけは察しているらしい。


「……殿下」


 最初に動いたのはリヒャルトだった。


「その話は、この場でするものではありません」


 正論である。

 まことに正論である。

 今日の彼は何度目か分からないほど救世主だった。


 だがアルベルトは、リヒャルトへ一度視線をやったあと、すぐにレオノーラへ戻した。


「そうだな。だが、気になったのも事実だ」


 やめてくださいまし。

 気にならないでくださいまし。


 レオノーラは心の中で切実に思ったが、口にできるはずもない。


「わたくしが、何を聞いていないと思われたのです?」


 ここは問い返すしかなかった。


 全面否定は危険だ。

 肯定も危険だ。

 ならば情報を引き出す。


 曖昧な状況では、まず相手の認識を確認する。

 こちらが知らない情報を、向こうがどこまで知っているのか。

 前世から染みついた現実的な思考が、自然とそう結論づけていた。


 アルベルトは少しだけ不思議そうな顔をした。


「君の家には、何も伝わっていないのか?」


 それだけで、レオノーラは内心で確信した。


 やはり来ていたのですわね。


 いや、来ると思っていた。

 思ってはいたが、こうして初日から現実味を帯びて突きつけられると、だいぶ気が重い。


 アルトヴァイス公爵家と皇太子。

 政略として考えれば、十分にあり得る。

 むしろ自然ですらある。


 だからこそ、ゲームでもそうだったのだろう。

 たぶん。


 問題は、レオノーラ本人がそれを全力で遠ざけたいことだけである。


「……殿下」


 レオノーラは静かに微笑んだ。


「そのような重要なお話であれば、なおさら、この場で軽々しく申し上げるべきではございませんわ」


 自分でも驚くほど、まともな返しだった。


 教室の空気がわずかに動く。

 アーネストが感心したように眉を上げ、リヒャルトはほんの少しだけ肩の力を抜いた。


 よし。

 悪くない。

 ここは“話題自体を否定せず、場の不適切さを理由に閉じる”のが最善だ。


 アルベルトも、その意図を理解したらしい。


「……もっともだな」


 あっさり引いた。


 助かった。


 レオノーラは心の中で深く息を吐いたが、もちろん表には出さない。


 だが安心しかけたその時、アーネストが空気を壊すように笑った。


「でも、知らないって顔は本物っぽかったよな」


 黙っていてくださいまし。


 レオノーラの笑顔が一瞬だけ固くなる。

 リヒャルトが即座にアーネストの脇腹へ肘を入れた。


「余計なことを言うな」 「痛っ」


 素晴らしい。

 今のは非常に良い一撃だった。


 レティシアは状況についていけていない様子で、おろおろとアルベルトとレオノーラを見比べていた。

 この子にはまだ分からない方がいい。むしろ全員、分からないまま帰ってほしい。


「とにかく」


 アルベルトが話をまとめるように言った。


「この話はまた後日だ。少なくとも、教室ですることではなかった」


 最初からそうしてくださいまし。


 だが、ようやく本人もそこに至ったらしい。

 それだけで十分な進歩である。


「わたくしも、そのように存じますわ」


 レオノーラが答えると、アルベルトは少しだけ目を細めた。


「君は、本当に何も聞いていないんだな」


「重要なお話ほど、家の中で最後に届くこともございますもの」


 これは半分本当だった。


 公爵家の令嬢として保護されている面もあれば、周囲が“まだ本人には早い”と判断することもある。

 特に政略婚や婚約の打診などは、大人同士の調整が先に走る。


 そしてレオノーラは、前世の記憶を思い出してからというもの、そちら方面に意識的に近づかないようにしていた。

 つまり、家側が隠すなら、こちらから拾いにいくこともなかった。


 アルベルトは納得したようでもあり、していないようでもある微妙な顔をした。


 だが、それ以上は言わない。


「今日はこれで失礼する」


「ごきげんよう、殿下」


「ああ」


 アルベルトが教室を出る。

 アーネストは去り際に、いかにも面白そうな顔でこちらを見たが、リヒャルトがその肩を引いて連れていった。


 レティシアだけは最後まで困ったようにしていたが、やがて小さく一礼してから後を追う。


 扉が閉まる。


 静かになる。


 そして、その瞬間。


「……」


「……」


 まだ残っていた生徒たち全員の気配が、ものすごく気まずくなった。


 当然である。


 皇太子が、三大公爵家の令嬢へ“婚約の話を聞いていないのか”などと言えば、気まずくならない方がおかしい。


 レオノーラは静かに目を閉じたくなった。


 帰りたい。

 本気で帰りたい。

 今日という日をここで終わらせたい。


「レオノーラ様……」


 控えめに声をかけてきたのはセシリアだった。


「何かしら」


「その……大丈夫ですの?」


 今日、何度目か分からない質問だった。

 だが今回は、今までで一番“大丈夫ではない状況”だったかもしれない。


「大丈夫、とは」


「いえ、その、今の……」


 答えに窮しているのが分かる。

 無理もない。本人ですら何がどうなっているのか完全には整理できていないのだから。


 レオノーラは少しだけ考え、それから苦笑に近い微笑みを浮かべた。


「少々、予想より早く面倒事が現実味を帯びてきただけですわ」


 正直すぎたかもしれない。


 だが、セシリアはむしろほっとしたような顔をした。


「いつものレオノーラ様に戻られましたわ」


「いつものわたくしとは」


「“困ったけれど、考えるしかないですわね”というお顔です」


 そんな顔をしていたらしい。


 少し不本意だが、間違ってもいない。


 レオノーラは小さく息を吐いた。


 婚約の話。


 つまり、まだ正式決定ではないのだろう。

 だが、打診か、調整か、あるいは半ば既定路線か。どこまで進んでいるかは分からない。


 分からないが、動いているのは確かだ。


 そして、前世の乙女ゲーム知識が本当に当たるなら、その先はろくでもない。


 ここで重要なのは、慌てないこと。

 強いストレスがかかると、人は視野が狭くなる。

 前世でも、焦った人間が選択肢を自分で潰していく場面は何度も見てきた。


 つまり今やるべきことは明白だ。


 情報を集める。

 家の認識を確認する。

 そして婚約ルートを可能な限り回避する。


 その三つである。


 レオノーラは、胸の内で静かに考えを整理した。


 こういう時こそ、感情で突っ走ってはいけない。

 前世の自分がそうだったように、まず親に確認し、話の全体像を掴み、それから動くべきだ。


 夢はないが、非常に正しい手順だった。


「レオノーラ様」


 今度はセシリアではなく、教室の反対側にいた令息が話しかけてきた。


 たしか伯爵家の次男だったか。名前はまだ曖昧だ。


「本日は、お疲れさまでした」


「ありがとうございます」


「……その、もし先ほどの件が何かご負担でしたら、私どもは聞かなかったことにいたします」


 それはずいぶん誠実な申し出だった。


 レオノーラは少し驚いたが、すぐに理解した。

 “一組の生徒たちは高位貴族やその周辺が多い。つまり、“聞いてはいけない話題の扱い”に慣れているのだ。


 実に助かる。


「お気遣い、感謝いたしますわ」


「いえ」


 その一言で、教室内の何人かが微妙に空気を緩めた。

 どうやら皆、必要以上に踏み込むつもりはないらしい。


 ありがたい。

 非常にありがたい。


 ただし、だからといって噂が完全に消えるとも思っていない。

 人は刺激の強い情報ほど拡散したがる。しかも“聞かなかったことにする”と決めても、表情や態度から伝わるものはある。


 今の自分は完全に“目立つ情報の塊”だ。

 大剣。

 武芸棟。

 新入生代表。

 皇太子との婚約話。


 今日一日で、情報が積み重なりすぎた。


「……本気で、静かに始めたかったのですけれど」


 思わず本音が漏れる。


 するとセシリアが、少し困ったように笑った。


「それは、たぶん皆さま同じかもしれませんわ」


「そうかしら」


「ええ。でも、ここまで派手にはならないだけで」


 たしかにそうだ。


 皆それぞれ、不安も期待もあるだろう。

 自分だけが特別に大変というわけではない。

 ただ、自分は大変さの種類が少しおかしいだけで。


 レオノーラは小さく息を吐いた。


「……帰って父と母に確認しますわ」


「そうなさるべきです」


 セシリアではなく、なぜかアーネストの席のあたりにまだ残っていたリヒャルトが答えた。


 帰っていなかったらしい。


「聞こえておりましたの?」


「だいぶ聞こえていました」


 それは失礼した。


 だが彼は咎める様子もなく、むしろ事務的に続けた。


「今日の殿下の言い方からして、正式決定ではないでしょう。少なくとも“すでに決まっている前提”ではなかった」


 レオノーラは少しだけ目を細めた。


「そう思われまして?」


「ええ。決まっているなら、あの場で確認する必要がない」


 なるほど。


 言われてみればその通りだ。


 つまり、皇太子側にも“話は動いているらしいが、本人認識がどこまであるのか分からない”程度の共有しかなかったのだろう。


 少しだけ希望が見えた気がした。


「ありがとうございます、エーベルハルト様」


「礼には及びません」


 彼はそこで一礼すると、今度こそ本当に教室を出ていった。


 最後までありがたい人物だった。


 レオノーラは席を立つ。


 今日のこれ以上の滞在は意味がない。

 むしろ早く家へ戻り、確認すべきだ。


 鞄を持ち、大剣の位置を整える。

 背中の重みが、少しだけ心を落ち着かせた。


 どんな話が家で待っているのかは分からない。

 だが、逃げていても始まらない。


 それに――


 もし本当に婚約話が進んでいるのなら、今こそ行動すべき時だ。


 前世の自分が恐れていた、婚約、断罪、投獄。

 その入口が目の前に来ているのだとしたら、放置する理由はない。


 レオノーラは静かに決意した。


 婚約回避。

 まずはそこからだ。


 そしてその日の帰り道、アルトヴァイス公爵家の馬車へ乗り込んだレオノーラを見て、迎えに来ていたクラウスは開口一番こう言った。


「お姉様」


「何かしら」


「顔を見れば分かります」


「何がかしら」


「今日、まだ何かありましたね」


 レオノーラは一瞬だけ黙り、それから深く、深く息を吐いた。


「……ええ」


「やはり」


「帰ったら、お父様とお母様に確認したいことがございます」


 クラウスの顔つきが変わる。


 軽口ではないと悟ったのだろう。


「かなり重要な話ですか」


「ええ。とても」


「分かりました。では、先に人払いをしておきます」


「助かりますわ」


 弟の手際の良さに少しだけ安堵しながら、レオノーラは馬車の窓へ視線を向けた。


 学院初日。


 静かに始めるつもりだったのに、最後には家へ持ち帰る火種まで増えていた。


 まったく、ひどい話である。


 だが、ここから先はむしろ都合がいいとも言えた。


 曖昧だった危機が、ようやく輪郭を持ったのだ。


 ならば、対処できる。


 レオノーラ・アルトヴァイスは、そういう女だった。

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