第10話 素敵でしたわ、と言われましても、わたくしは平穏が欲しいだけですの
終わりましたわね、とレオノーラは内心で静かに確信した。
武芸棟での件を、しかも“素敵でした”などという好意的な方向で受け止められている。
それはつまり、遠巻きに警戒されて終わるのではなく、興味を持たれてしまったということだ。
困る。
非常に困る。
レオノーラが本当に欲しいのは、畏怖でも賞賛でもなく、平穏無事な学園生活である。
できれば目立たず、必要最小限の社交だけで卒業まで駆け抜けたい。
なのに現実はどうだ。
皇太子と同じクラス。
その側近とも会話済み。
そして今、たぶんヒロイン級の立ち位置にいる少女から、キラキラした目で話しかけられている。
前世知識が曖昧なせいで断定できないのが、なおさら怖かった。
「……恐れ入りますわ」
レオノーラはとりあえず、最も無難な返答を選んだ。
褒められた時は受け流す。
否定しすぎても空気が悪くなるし、調子に乗ってもろくなことがない。
するとレティシア・フローレンスは、ますます柔らかく微笑んだ。
「本当に。とても綺麗でしたわ。力強いのに、乱暴ではなくて。見ていて少しも怖くありませんでしたの」
それはだいぶ珍しい感想だった。
怖いとはよく言われる。
大剣を背負っている時点で仕方ない。
だが“怖くない”と言われることはほとんどない。
レオノーラは少しだけ目を瞬いた。
「……そう、かしら」
「はい」
レティシアは素直に頷いた。
「わたくし、武芸には詳しくありませんけれど、それでも分かるくらいに、ちゃんと扱っていらっしゃいましたわ」
その評価は、たぶんかなり本質を突いていた。
派手さだけではなく、扱っていることを見ていたのだ。
少し意外で、少し困る。
こういう相手は、苦手だ。
表面的な怖がり方や偏見なら、距離を取れば終わる。
だが、真っ直ぐに見て、しかも好意的に理解しようとする相手は、どう扱えばいいのか分からない。
「レティシア嬢は見る目があるね」
アーネストが面白そうに言う。
「だろ? あれ、ただの怪力じゃない」
「お前は言い方を考えろ」
リヒャルトが即座に切った。
ありがたい。
この人は本当にありがたい。
だがレティシアは気にした様子もなく、むしろ少しだけ身を乗り出した。
「アルトヴァイス様は、やはり昔から武芸を?」
来た。
会話が伸びる。
レオノーラは心の中で小さく呻いた。
ここで素っ気なく切ると感じが悪い。けれど詳しく話せば話すほど、今後の接点が増えそうな気がする。
選ぶべきは、短く、嘘なく、広がらない答え。
「ええ。幼い頃から少し」
少し、で済ませるにはだいぶ無理があるが、完全な嘘でもない。
少しずつ、何年も積み上げてきたのだから。
しかしアーネストが横からすぐに笑う。
「少し、ねえ」
黙っていてほしい。
レオノーラは笑顔のままそう思った。
アルベルトはそのやり取りを見ていたが、不意にレティシアへ言った。
「フローレンス嬢、君も一組なら、この先いくらでも話す機会はあるだろう。今は教室へ向かった方がいい」
助かる。
レオノーラは心からそう思った。
だがレティシアは素直に引き下がる前に、もう一度だけレオノーラへ向き直った。
「では、また後ほどお話しできますか?」
逃がしてくれない。
だがここで断るのは不自然だ。
しかも周囲には皇太子たちもいる。印象を悪くする手は取れない。
「……ええ、機会があれば」
完全肯定ではなく、余地を残す返答。
我ながら悪くない。
ところがレティシアは、その“機会があれば”をほとんど気にせず嬉しそうに笑った。
「はい」
強い。
この少女、思ったより強い。
押しが強いという意味ではない。
自然に相手の防御を越えてくる強さだ。
そういうタイプは厄介である。こちらが露骨に拒まない限り、距離が縮む。
そしてレオノーラは、露骨に拒むわけにはいかない立場だった。
「では行こうか」
アルベルトがそう言って、一団は教室棟の方へ動き出した。
アーネストは最後まで興味深そうにレオノーラを見ていたし、リヒャルトは一礼だけして去っていく。レティシアは去り際にも小さく手を振った。
レオノーラは淑女らしく微笑み返し、彼らが十分離れたところで、すっと表情を消した。
「……お姉様」
クラウスが静かに言う。
「何かしら」
「今の数分で、だいぶお疲れになりましたね」
「分かりまして?」
「ええ。目が死んでいます」
失礼極まりない弟である。
だが否定はできない。
「わたくし、どうすればよろしくて?」
「何がです」
「明らかに、向こうから距離を詰めてこようとしておりますわ」
「はい」
「放っておいてほしいのですけれど」
「それはたぶん無理です」
残酷なほど即答だった。
「なぜですの」
「お姉様が目立ちすぎたからです」
「心外ですわ」
「事実です」
そこへ、今までやや距離を置いて見ていたセシリアが、控えめに近づいてきた。
彼女は少し困ったような、でも好奇心を抑えきれないような顔をしている。
「……あの」
「何かしら」
「今の」
「ええ」
「完全に、一組の中心人物たちに認識されましたわね」
やめてほしい言い方だった。
だが、たぶんその通りでもある。
セシリアの後ろにいた令嬢たちもうんうんと頷いている。
つまり客観的に見てもそうなのだ。
「わたくしは認識されたくなかったのですけれど」
「お気持ちは分かりますわ」
セシリアは本当に優しい。
「ですが、あれだけのことをしておいて、気づかれない方が無理ではなくて?」
優しいが、正確でもあった。
レオノーラは少しだけ項垂れたくなった。
前世でも、結果から逆算すると「そりゃ目立つだろ」と言われることはたまにあったが、今回は規模が違う。
「とりあえず、教室へ参りましょう」
クラウスが実務的に言う。
「これ以上、廊下で立ち話をしても人が増えるだけです。教室棟の手前まではご一緒できますが、その先は新入生だけでしょう」
その判断は正しい。
レオノーラは頷き、セシリアたちと別れて一組の教室へ向かうことにした。
教室棟の廊下は、すでに新入生たちで賑わっていた。
扉ごとに掲示されたクラス名、行き交う上級生、案内する職員。華やかで、少し浮ついた空気。これから始まる学園生活への期待が、あちこちに満ちている。
その中を、レオノーラはできる限り目立たぬよう歩いた。
だが、無理だった。
すれ違うたびに見られる。
ときには明らかに道を空けられる。
しかも今日は武芸棟の話まで乗っているから、単なる大剣令嬢ではなくなっている。
「……」
「諦めてください」
クラウスの慰めにならない慰めが飛んだ。
一組の教室がある区画の手前で、クラウスは足を止めた。
「お姉様、私はここまでです」
「ええ」
「ここから先は新入生だけでしょうから」
「分かっておりますわ」
レオノーラは小さく息を吐いた。
「少し心細いですわね」
「今さらですか」
「今さらですわ」
クラウスはほんの少しだけ表情を和らげた。
「大丈夫です。お姉様は目立ちますが、それと同時に、そう簡単に侮られもしません」
「慰めになっているのか微妙ですわね」
「事実です」
それから彼は、少しだけ真面目な顔になった。
「ですから、無理に構えすぎず、必要以上に戦わず、ですが必要な一線だけは譲らないように」
「……ええ」
「あと」
「何かしら」
「自己紹介で余計なことを言わないでください」
「わたくしを何だと思っておりますの」
「油断すると“断罪”とか“生き延びる”とか言いそうな人です」
ひどい。
ひどいが、否定しきれないのが悔しい。
レオノーラは肩をすくめた。
「努力しますわ」
「その言い方が一番不安です」
クラウスはそう言って一礼した。
「では、また後で」
「ええ。また後で」
弟を見送ってから、レオノーラは一人で教室棟の奥へ向かった。
少しだけ、背中の剣が重く感じた。
一組の教室は、教室棟の最奥寄りにあった。
広い。机も質がよく、窓から中庭が見える。席は自由選択らしいが、前方中央寄りはすでに皇太子周辺が自然に固められていた。
レオノーラは教室へ入った瞬間に判断する。
前はだめ。
中央もだめ。
窓際後方、できれば端。
認知科学的にも、人は中央や前列に注意を向けやすい。
なら視線の集まりにくい場所を選ぶべきだ。
つまり――
「後ろの端ですわね」
レオノーラは一人、小さく呟いた。
一番後ろの窓際、そのさらに壁寄りの席へ荷物を置く。
よし。ここならまだいい。出入口と教卓の視線導線から少し外れる。
完璧ではない。
完璧ではないが、今できる最善ではある。
「少し落ち着きましたわ」
誰に言うでもなくそう漏らした時、教室へ生徒たちが次々と入ってきた。
中にはレオノーラを見て一瞬固まる者もいたが、さすがに同じ一組だけあって露骨に騒ぐ者はいない。
そのうち、セシリアも入ってきた。
彼女は少し迷ったあと、レオノーラから二列前の窓際席を選んだ。絶妙な距離感である。賢い。
逆にレティシアは、自然な顔で前方中央やや横――つまりアルベルトたちからそう遠くない位置へ座った。
やはり、そういう配置になりますのね。
レオノーラは心の中で静かに頷いた。
ゲームの記憶が曖昧でも、こういう座席の引き寄せ方には妙な説得力がある。
そして最後の方に入ってきたアーネストが、教室を見回してから、にやりと笑った。
嫌な予感。
彼はつかつかと歩いてきて、なんとレオノーラの一つ前の席に座った。
「……なぜですの」
思わず小声で漏らすと、アーネストは振り返って明るく言った。
「面白そうだから」
理由が最悪だった。
「お前は本当に分かりやすいな」
少し遅れて入ってきたリヒャルトが、呆れたように言いながら、その隣へ座る。
結果、レオノーラの前列はアーネストとリヒャルトになった。
逃げ場がない。
ほどなくして、教室の扉が閉まる。
中年の女性教員が入ってきた。背筋の伸びた、理知的な雰囲気の人だ。一組を受け持つだけあって、かなり手強そうである。
「静粛に」
一声で教室が静まる。
「本日より一組の担任を務めます、マグダ・シュトラールです」
教室内に程よい緊張が走る。
よし。ここからは普通のオリエンテーションだ。出席確認、今後の日程、寮や授業の説明。その程度で終わるはず。
レオノーラはそう思っていた。
だが、マグダ教員は名簿を開く前に、一度教室全体を見回し、少しだけ意味深に言った。
「……なお、本日はすでに色々と話題の多い入学初日となっているようですが、一組においては個々の事情より、まず学業と規律を優先します」
何人かの視線が、さりげなくレオノーラへ向いた。
やめてほしい。
「ただし」
マグダ教員は続ける。
「互いを知る意味でも、本日は簡単な自己紹介をしてもらいます。一人ずつ、前へ」
教室の空気が少しだけざわめいた。
レオノーラは静かに天を仰ぎたくなった。
まだ続きますのね。
今日、まだ続きますのね。
しかもこの流れだと、ただ名前を言って終わりになるとは思えない。
最悪の場合、皇太子、ヒロインっぽい少女、側近二人、そのあとに自分、あるいはその逆。どう転んでも気が重い。
そして前の席で、アーネストが楽しそうに肩を震わせた。
「面白くなってきた」
全然面白くありませんわ、とレオノーラは心の中で返した。




