「たんぽぽコーヒーと、見知らぬ『彼女』への嫉妬」
心拍が確認できた喜びも束の間、真紀のつわりはピークを迎えていた。
週末の土曜日。蒼馬のタワーマンションの広くて快適なリビングで、真紀はソファに深く沈み込み、ぐったりと目を閉じていた。
(気持ち悪い……。何も食べられないし、大好きなコーヒーの匂いすら今はダメだなんて)
休日はいつも仕事の資料を読んでいる蒼馬だが、今日はなぜかキッチンに立ち、何やらゴソゴソと作業をしている。
少しして、カチャリとテーブルにマグカップが置かれた。
「結城、起きられるか。これを飲んでみろ」
「……蒼馬さん? これは……」
真紀が身を起こすと、マグカップからふわりと香ばしい匂いが漂ってきた。
コーヒーのような深い焙煎の香りだが、あの胃を刺激する特有の匂いはない。
「たんぽぽコーヒーだ。焙煎したたんぽぽの根から作られていて、ノンカフェインだから妊婦でも飲める。つわりの吐き気を和らげる効果もあるらしい」
「たんぽぽコーヒー……。蒼馬さん、わざわざ私のために淹れてくれたんですか?」
「……たまたま、良質な豆が手に入っただけだ。コーヒー好きの君なら、少しは気が紛れるかと思ってな」
そっぽを向いて答える蒼馬だが、彼が仕事の合間を縫って、わざわざ妊婦向けの飲み物を探してくれたことは痛いほど伝わってきた。
真紀は両手でマグカップを包み込み、ゆっくりと口をつける。
香ばしい苦味と優しい甘さが、荒れていた胃にじんわりと染み渡っていく。
「……美味しい。すごく、ホッとします」
「そうか。ならよかった」
蒼馬は満足そうに短く答え、自分用のコーヒーを一口飲んだ。
その穏やかな横顔を見つめながら、真紀の胸の中に、温かい感情と同時にチクッとした痛みが広がる。
「蒼馬さんって、本当に優しいですね」
「……僕が? 氷の専務と恐れられている僕が?」
「はい。契約相手の私にまで、こんなに手厚くしてくれて……。でも、なんだか申し訳なくなってきます。蒼馬さんは、本当はもっと、好きな人にこういう優しさを向けるべきなのに」
真紀が自嘲気味に笑うと、蒼馬のマグカップを持つ手がピタリと止まった。
「……別に、誰にでもこんなことをするわけじゃない」
「え?」
「昔……僕がひどく体調を崩して保健室で寝込んでいた時、温かいほうじ茶を淹れてくれたお人好しな『彼女』がいてね。その時の温かさが忘れられなくて、ただ恩返しのような真似をしているだけだ」
蒼馬はどこか遠くを見るような、それでいてひどく甘く、切なげな瞳をしていた。
(――彼女?)
真紀の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
蒼馬の過去にいる、彼にほうじ茶を淹れてあげた優しい女の子。
彼がこんなにも愛おしそうな顔で思い出すその「彼女」の存在が、真紀の胸をざわざわと波立たせた。
(私には、あくまで『契約』だから優しくしてくれているだけ。彼の心の中には、ずっと忘れられない特別な人がいるんだ……)
胸の奥がキュッと締め付けられる。
まさか、その「お人好しな彼女」が、中学生時代の自分自身(真紀)のことだとは夢にも思っていない真紀は、得体の知れない感情――「嫉妬」に酷く戸惑っていた。
「……そう、なんですね。素敵な思い出ですね」
真紀は自分の声が微かに震えているのを悟られないよう、必死に微笑みを作ってマグカップに口をつけた。
目の前にいる蒼馬に、間違いなく惹かれ始めている自分。
しかし彼には、忘れられない過去の想い人がいる(と思い込んでいる)。
たんぽぽコーヒーの香ばしい苦味が、今日はやけに、胸の奥までほろ苦く染み渡った。




