「給湯室の噂話と、鍵をかけた資料室」
「ねえ聞いた? 九条専務、会長から銀行頭取のお嬢さんとの縁談を勧められてるらしいよ」
「うわー、まさに絵に描いたような政略結婚! でも専務、最近左手の薬指に指輪してるよね?」
「あれ、虫除けのダミーじゃないかって噂だよ。だってあんなに冷徹で仕事の鬼なのに、女の影なんて全然ないし」
週明けの給湯室。同僚たちの楽しげな噂話を背中で聞きながら、真紀は静かにマイボトルにお湯を注いでいた。
(……縁談。そういえば、契約結婚を持ちかけられた時、政略結婚の『隠れ蓑』が必要だって言っていたっけ)
ダミーの指輪。
真紀の左手薬指にも、彼とお揃いのシンプルなプラチナリングが光っている。
第三者から見れば、九条蒼馬という御曹司の隣に、一介の中堅社員である自分が並ぶことなど、あり得ない格差恋愛なのだ。
(それに、彼には忘れられない『過去の彼女』がいるしね……)
週末にたんぽぽコーヒーを淹れてくれた時の、蒼馬のひどく甘く、愛おしそうな横顔を思い出し、真紀の胸がズキリと痛んだ。
その痛みを誤魔化すように息を吐き出した瞬間、不意に胃の底から嫌な吐き気が込み上げてきた。
「うっ……」
「結城さん? 大丈夫?」
「ご、ごめんなさい、ちょっと貧血気味で……少し資料室で休んでくるね」
つわりの波をごまかし、真紀は逃げるように人目のない地下の資料室へと駆け込んだ。
冷たいスチール棚の影にしゃがみ込み、膝に顔を埋めて荒い息を整える。
つわりの気持ち悪さと、心の奥に広がる名状しがたい嫉妬と孤独感で、涙が滲みそうになった。
その時。
カチャリ、と資料室の重いドアが開き、直後に「ガチャッ」と内側から鍵がかけられる音が響いた。
「え……?」
顔を上げると、薄暗い資料室の中に、長身のスーツ姿が立っていた。
「く、九条専務……どうして」
「顔色が悪かったからな。それに、給湯室から逃げるように出て行くのが見えた」
蒼馬はコツコツと革靴を鳴らして近づき、真紀の目の前にしゃがみ込んだ。
その大きな手が、迷うことなく真紀の青白い頬に触れる。
「冷たいな。……吐き気か?」
「大丈夫、です。でも、専務がこんなところにいたら、変な噂が……」
「誰も来ないさ。それに、こんな顔の妻を一人で放っておけるほど、僕はできた人間じゃない」
誰かに聞かれたら一発でアウトな言葉を平然と口にしながら、蒼馬はポケットから小さな包みを取り出し、真紀の手に握らせた。
「これは……?」
「レモン味のドロップだ。柑橘系なら、少しは胸のむかつきが抑えられるだろう。舐めなさい」
たんぽぽコーヒーの次は、レモンドロップ。
相変わらず、どこかで調べて用意してくれたのだろう。
その不器用で過保護な優しさが、今はたまらなく辛かった。
「……蒼馬さん」
真紀はドロップを握りしめたまま、俯いてポツリとこぼした。
「私には、そんなに優しくしなくていいんです。ただの『契約』なんですから。……蒼馬さんのその優しさは、いつか現れる本当の奥様か、あなたの心の中にいる『特別な人』に向けてあげてください」
給湯室の噂話。そして、彼が語った過去の想い人。
身の程知らずな恋心にブレーキをかけるための、真紀なりの強がりだった。
しかし。
「……結城」
今まで聞いたことがないほど、低く、熱を帯びた声が頭上から降ってきた。
ハッとして顔を上げると、蒼馬がギリッと奥歯を噛み締め、射抜くような鋭い瞳で真紀を見つめていた。
「……君は、本当に何も分かっていない」
蒼馬の大きな手が、真紀の背中に回り、グッと強く引き寄せられる。
スチール棚に背中を預けたまま、蒼馬の広い胸にすっぽりと閉じ込められる形になった。
微かなオーデコロンと、彼の体温がダイレクトに伝わってくる。
「そ、蒼馬さ……っ」
「僕が、ただの契約相手にここまで執着する男に見えるか?」
顔が、近い。彼から放たれる圧倒的な熱量に、真紀は息を呑んだ。
その唇が、真紀のそれに触れるか触れないかの距離まで近づいた、その瞬間。
『トントンッ』
静寂の資料室に、無情にもドアをノックする音が響いた。
「あれ? 鍵閉まってる……中に誰かいますかー?」
総務部の社員の声に、二人の肩がビクッと跳ねる。
蒼馬はチッと小さく舌打ちをすると、真紀からゆっくりと身体を離し、何事もなかったかのようにネクタイを締め直した。
「……続きは、家に帰ってからだ」
真紀の耳元でそう囁くと、氷の専務の仮面を被り直し、ドアへと向かっていく。
残された真紀は、口の中にレモンドロップの酸っぱさと甘さを広げながら、心臓が爆発しそうなほどの動悸を必死に抑え込んでいた。
(続きって……なによ、それ)
冷徹な上司と、過保護な夫。そして時折見せる、雄の顔。
大人の秘密の関係は、密室の中で確実に熱を帯び始めていた。




