「リビングの独占欲と、素面(しらふ)のキス」
「……ただいま、帰りました」
夜のタワーマンション。広々としたエントランスを抜け、真紀は恐る恐るリビングのドアを開けた。
今日の午後、地下の資料室で蒼馬から告げられた『続きは、家に帰ってからだ』という言葉が、ずっと頭の中で警報のように鳴り響いていた。
リビングには間接照明だけが点灯しており、ソファにはすでにシャワーを浴び終えたらしい蒼馬が座っていた。
ラフなルームウェア姿だが、その眼差しは獲物を狙うように静かで、そして熱い。
「遅かったな」
「あ……残務処理が少しあって。お、お茶、淹れますね!」
逃げるようにキッチンへ向かおうとした真紀の腕が、後ろから伸びてきた大きな手にガシッと掴まれた。
「逃げるな」
「逃げて、ないです……っ」
腕を引かれ、真紀はソファに座る蒼馬の膝の間にすっぽりと収まるような形で立たされた。
見上げると、濡れた黒髪から雫を滴らせた蒼馬が、真紀を逃さぬように両腕を腰に回してきた。
「資料室での話の続きだ。……給湯室で、僕の縁談の噂を聞いたんだったな」
「……はい」
「バカバカしい。親族が勝手に見合い写真を送りつけてきただけで、一秒で断った。そもそも僕には、戸籍上の立派な『妻』がいるんだからな」
呆れたように息を吐く蒼馬に、真紀はギュッと両手を握りしめた。
「でも! それは私が『隠れ蓑』だからですよね。……それに、蒼馬さんには過去に忘れられない人がいるのに、私みたいな愛のない契約相手に、あんな風に触れるのは……間違ってます」
これ以上優しくされたら、本当に彼を好きになって、契約が終わる時に身が引き裂かれてしまう。
その恐怖から、真紀は必死に彼を突き放そうとした。
しかし、蒼馬は真紀の腰に回していた腕にさらに力を込め、真紀の身体を自分に密着させた。
「っ……蒼馬さん……」
「君は本当に、聞き分けのない強情な妻だ」
蒼馬の大きな手が真紀の頬を包み込み、そっと親指で目元を撫でた。
その手つきは、壊れ物に触れるようにどこまでも優しい。
「過去は過去だ。それに……僕が今、触れたいと思うのも、独占したいと思うのも、目の前にいる君だけだ」
「え……」
「ただの契約相手に嫉妬して、資料室で理性を飛ばしかけるほど、僕は暇じゃないし器用でもない」
低く甘い声とともに、蒼馬の顔がゆっくりと近づいてくる。
真紀は大きく目を見開いたが、逃げることはできなかった。
彼の瞳の奥に燃えるような本気の熱を見てしまったからだ。
そっと、唇が重なる。
あの、お酒に酔って前後不覚だった「ワンナイトラブ」の夜とは違う。
お互いの吐息の熱さも、唇の柔らかさも、微かに香るシャワージェルの匂いも、すべてが鮮明に脳裏に焼き付いていく、素面での甘いキスだった。
「んっ……」
真紀が小さく声を漏らすと、蒼馬はさらに角度を変え、深く、確かめるように何度も唇を啄んだ。
妊娠中の真紀の身体を気遣うように、決して無理な力はかけず、ただ熱だけを注ぎ込んでくる。
(どうしよう。契約のはずなのに。彼がこんなにも、甘いなんて)
どれくらいそうしていただろうか。
ゆっくりと唇が離れると、蒼馬は真紀の額に自分の額をコツンとすり寄せた。
「……これでもまだ、ただの契約だと言い張るか?」
「そ、れは……」
「返事は急がない。だが、君をただの身代わりだなんて、二度と言わせない」
意地悪く、けれどひどく優しく微笑む蒼馬の顔を見て、真紀は顔から火が出るほど赤くなるのを感じた。
愛のない契約結婚。
その強固なはずのルールが、熱を帯びた一つのキスによって、音を立てて崩れ去った夜だった。




