「氷の専務の看病と、記憶の中の眼鏡」
あの甘く、熱を帯びたキスから数日。
タワーマンションのリビングに流れる空気は、劇的に甘く、そしてむず痒いものに変わっていた。
「おはよう、真紀」
「お、おはようございます……蒼馬さん」
朝、ダイニングで顔を合わせるだけで、真紀の心臓は跳ね上がる。
蒼馬は相変わらずビジネスライクな口調を装っているが、真紀を呼ぶ声はひどく優しく、視線が交差するたびに、あの夜の唇の熱を思い出してしまう。
完全に「ただの契約」という言い訳は通用しなくなっていた。
そんなある日の朝。
いつもなら誰よりも早く起きて身支度を整えているはずの蒼馬が、リビングに姿を見せなかった。
「蒼馬さん? まだ寝てるのかな……」
不審に思った真紀が、そっと蒼馬の寝室のドアをノックして開けると、そこにはベッドに横たわり、苦しげな息を吐く蒼馬の姿があった。
「蒼馬さん!? 顔、真っ赤ですよ!」
慌てておでこに手を当てると、火のように熱い。
「……あ、真紀。悪い……少し、風邪を引いたらしい。秘書に連絡して、今日の会議はオンラインに……」
「ダメです! 完全に熱があるじゃないですか。今日は休んでください!」
氷の専務が、まさかのダウン。
「でも、会社にはどうやって……私が一緒に連絡したら、絶対に怪しまれますよね」
「……ああ。僕のスマホを取ってくれ。自分で秘書にメッセージを打つ」
真紀は蒼馬にスマホを渡し、彼が直属の秘書へ「急な発熱のため休む」と連絡を入れたのを見届けた。
その後、真紀自身も自分の部署の先輩へ「今日は貧血が酷いためお休みをいただきます」と、全く別の理由で個別に連絡を入れた。
あくまで『偶然、同じ日に体調を崩して休んだ上司と部下』という体裁を必死に保たなければならない。
秘密のオフィスラブの苦労する点だった。
連絡を終えると、真紀は氷枕やスポーツドリンクを準備し、つきっきりで看病を始めた。
(いつも私と子どものことばかり気遣って、自分の仕事も完璧にこなして……無理してたんだ)
お昼過ぎ。薬を飲んで少し熱が下がってきた蒼馬に、真紀は温かい飲み物を作って寝室へ運んだ。
「蒼馬さん、起きていられますか? 温かいほうじ茶、淹れましたよ」
「……ありがとう」
ベッドの上で身を起こした蒼馬を見て、真紀は一瞬ドキリとした。
いつもは完璧にセットされている前髪が下りており、そして何より、彼の顔には銀縁の眼鏡がかけられていたのだ。
「あれ、眼鏡……珍しいですね。初めて見ました」
「コンタクトを入れる気力もなくてね。家で目が疲れた時だけ、たまにかけているんだ」
そう言ってマグカップを受け取った蒼馬は、ふうっと息を吹きかけてから、ゆっくりとほうじ茶を口に含んだ。
「……美味しい」
熱で潤んだ瞳。眼鏡越しの、少し弱々しくも優しい笑顔。
その表情を見た瞬間。真紀の脳裏に、不意にノイズのような映像が走った。
『……美味しい。ありがとう、結城さん』
(え……?)
真紀は思わず息を呑み、立ち尽くした。
今、頭の中に響いたのは、まだ幼い少年の声だった。
――保健室のベッド。
――分厚い眼鏡をかけた、口数の少ない地味な男の子。
――熱を出して震えていた彼に、ストーブで温めたほうじ茶を淹れてあげた、中学生の私。
『蒼馬さんって、本当はもっと、好きな人に優しさを向けるべきなのに』
『……昔、僕が体調を崩して寝込んでいた時、温かいほうじ茶を淹れてくれたお人好しな彼女がいてね』
いつかの週末、たんぽぽコーヒーを飲みながら彼が語った言葉が、パズルのピースのようにカチリと音を立ててはまっていく。
(嘘。まさか……)
「……真紀? どうした、急に黙り込んで。君も具合が悪くなったのか?」
蒼馬が心配そうにこちらを覗き込んでくる。
その洗練された大人の男の顔の奥に、かつて同じクラスの隅に座っていた、あの大人しい「九条くん」の面影が、はっきりと重なった。
「そ、ういうわけじゃ……あの、蒼馬さん」
真紀は震える声で、ずっと聞けなかった、けれど今どうしても確かめなければならない核心を口にした。
「蒼馬さんの出身中学って……もしかして、市立桜ヶ丘中学校、ですか……?」
その問いを聞いた瞬間。
蒼馬のマグカップを持つ手がピタリと止まり、眼鏡の奥の瞳が、驚きに大きく見開かれた。
ずっと隠されていた過去の扉が、今、ついに開かれようとしていた。




