「はじめての健診と、エコー画面の小さな瞬き」
歓迎会から数日後。真紀の体調に明らかな変化が訪れていた。
「うっ……」
朝、洗面所に駆け込み、胃の中のものを吐き出そうとするが何も出ない。
いわゆる「食べづわり」と「吐きづわり」のハイブリッドのような状態で、ここ数日、真紀はまともに食事が喉を通っていなかった。
「……ひどい顔色だ。今日は休め」
洗面所のドアの外には、出勤前のスーツ姿の蒼馬が腕を組んで立っていた。
その眉間には、これまでで一番深いシワが刻まれている。
「大丈夫、です……。今日は午前に重要な打ち合わせが……」
「僕の権限でリスケジュールする。いいから、今日は横になっていなさい」
「でも……!」
「君は今、自分一人の身体じゃない。それに……」
蒼馬は少しだけ言葉を濁し、視線を逸らした。
「君に何かあったら、僕の計画に支障が出る」
相変わらずの憎まれ口。
けれど、真紀はその言葉の裏にある不器用な心配を、もう知っている。
「……はい。ご迷惑をおかけして、すみません」
結局その日、真紀は会社を休み、午後から産婦人科の定期健診に向かうことになった。
タクシーを呼ぼうとマンションのエントランスに降りると、そこにはなぜか、黒のSUVが停まっていた。
「乗れ」
運転席の窓が開き、サングラスにノーネクタイのカジュアルなシャツ姿の蒼馬が顔を出した。
「え!? 蒼馬さん、仕事は……」
「午後の会議はオンラインに切り替えた。病院まで送る」
「そんな、申し訳ないです! 契約外の負担ですし、もし誰かに見られたら……」
「うるさい。妊婦を一人で歩かせるわけにいかないだろう。早く乗らないと目立つぞ」
強引に助手席に乗せられ、二人は車でクリニックへ向かった。
待合室では、周囲の目を気にして少し離れて座っていたが、看護師の声が響いた瞬間、真紀の肩がビクッと跳ねた。
「九条真紀さーん、診察室へどうぞ」
九条、真紀。
病院のシステム上、すでに蒼馬の籍に入っている真紀は、その新しい名字で呼ばれたのだ。
「行こう」
蒼馬が自然な動作で立ち上がり、真紀の腰にそっと手を添えて診察室へとエスコートする。その大きな手の温もりに、真紀の胸が甘く鳴った。
診察室のベッドに横たわり、医師がエコーの機械をお腹に当てる。
カーテンの向こう側から、「ご主人もこちらへどうぞ」と医師が蒼馬を呼ぶ声が聞こえた。
『ほら、見えますか? ここ。ピコピコ動いているのが心臓ですよ』
モニターに映し出された、小さな小さな影。その中心で、健気に点滅している小さな光。
「あ……」
真紀の目から、自然と涙がこぼれ落ちた。自分のお腹の中に、確かに生きている命。初めて実感したその重みに、胸が一杯になる。
ふと隣を見ると、蒼馬はモニターを食い入るように見つめ、完全に言葉を失っていた。
「氷の専務」と呼ばれる彼が、瞬きすら忘れ、少しだけ口元を震わせている。
その横顔は、ビジネスライクな契約相手のものではなく、紛れもなく「一人の父親」の顔だった。
帰り道、車内は静寂に包まれていた。
信号待ちで停車した際、蒼馬がふと口を開いた。
「……不思議なものだな」
ハンドルを握る彼の手には、力が入っていた。
「あんなに小さな命が、君の中で生きているなんて。……無事に、育ってほしい」
心底愛おしそうに呟く蒼馬の声を聞いて、真紀は嬉しい反面、胸の奥がチクッと痛むのを感じた。
(蒼馬さんは、本当に責任感が強くて、優しい人。だからこそ、愛のない私との契約結婚なんかに縛り付けてしまって……申し訳ないな)
蒼馬が真紀に長年片思いをしていることなど知る由もない真紀は、彼の優しさに触れれば触れるほど、「契約」という縛りに罪悪感を抱き始めていた。
一方の蒼馬も、真紀が自分を「ただの責任感の強い上司」としか見ていないと思い込み、これ以上踏み込むことを躊躇している。
お互いを想い合っているのに、見えない契約の壁が邪魔をする。
すれ違いの恋心は、新しい命の成長とともに、少しずつ複雑に絡み合い始めていた。




