「歓迎会のホット柚子茶と、氷の専務の密かな過保護」
「真紀!」
週末、旧居で倒れそうになった私を支えながら、彼が切羽詰まった声で呼んだ私の名前。
月曜日に出社してからも、真紀の頭の中ではその声が何度もリフレインしていた。
(下の名前で呼ばれるなんて、いつぶりだろう……。それにあの時、すごく焦って、本気で心配してくれているみたいだった)
パソコンの画面を見つめながら、真紀は小さくため息をつく。
契約結婚。愛情はない。お互いの利害が一致しただけのビジネスパートナー。
そう何度も自分に言い聞かせているのに、蒼馬が時折見せる不器用な優しさが、真紀の心のバリアを少しずつ溶かしていく。
「結城さん、今日の夜、空いてるよね? 九条専務の歓迎会!」
「あ……はい。伺います」
同僚の声に、真紀はハッと我に返った。
今日は親会社から赴任してきた「氷の専務」こと、九条蒼馬の歓迎会が予定されている。
部署の全員が参加する以上、真紀だけ欠席するわけにはいかなかった。
(でも、お酒……どうしよう。妊娠のこと、まだ誰にも言えないのに)
夜。会社の近くにある小洒落た居酒屋の掘りごたつ席で、歓迎会はスタートした。
主役である蒼馬は上座に座り、相変わらず隙のない表情で社員たちの挨拶を淡々と受けている。
真紀は一番下座に陣取り、目立たないようにウーロン茶をちびちびと飲んでいた。
「結城さんも、せっかくだから専務にお酒注いできなよ!」
「いえ、私は下座で取り分けをしていますから……」
「いいからいいから! ほら、結城さんのグラスも空じゃない。ビールでいい?」
お酒の入った陽気な上司が、有無を言わさず真紀のグラスにビールを注ごうと瓶を傾けた、その瞬間だった。
「――アルコールの強要は、今の時代コンプライアンス違反にあたりますよ、課長」
静まり返る座敷。
声の主は、上座から鋭い視線を向けている蒼馬だった。
「社員の健康管理も管理職の務めです。飲みたい者が、飲みたいペースで、好きなものを頼む。うちの部署の飲み会は、今後その方式で統一してください」
「は、はいっ! 申し訳ありません、専務!」
氷の専務の正論に、上司は慌ててビール瓶を引っ込めた。
周囲の女子社員たちが「専務、厳しいけど言ってることスマート!」「さすが……」とヒソヒソ囁き合う中、真紀はホッと胸をなでおろした。
(また、助けられちゃったな……)
それから数分後。真紀の元に、店員がコトッと小さな湯呑みを置いた。
「あの、これ頼んでいないんですが……」
「あちらのお客様からです。『冷たいウーロン茶ばかりではお腹が冷えるだろう』と」
店員が目配せした先には、他の社員と淡々と会話をしながらも、こちらには一切視線を向けない蒼馬の姿があった。
湯呑みの中には、湯気を立てる甘いホット柚子茶が入っていた。
――数時間後、タワーマンションの最上階。
時間をずらして別々に帰宅した二人は、静かなリビングで顔を合わせた。
蒼馬はネクタイを外し、少しだけ疲れたようにソファに腰を下ろしている。
「あの……蒼馬さん」
真紀は、蒼馬のために温かいお茶を淹れてテーブルに置いた。
「今日は、ありがとうございました。飲み会で庇っていただいた上に、温かい飲み物まで……」
「別に。会社のコンプライアンスを徹底しただけだ。それに、契約相手が体調を崩せば僕の計画にも支障が出るからな」
蒼馬は顔を背け、冷たい声でそう言い放つ。
「……ふふっ」
「何がおかしい」
「いえ。蒼馬さんって、言葉は冷たいのに、行動はすごく過保護だなと思って」
真紀がクスッと笑うと、蒼馬はピタリと動きを止めた。
「……過保護で悪いか」
小さく呟いた蒼馬の耳元が、ほんのりと赤く染まっているのを真紀は見逃さなかった。
(ビジネスだって言いくるめようとするのに、全然隠しきれてない)
住む世界が違う、冷徹な御曹司。
でも、私だけが知っている、不器用で、本当はとても優しい人。
真紀は胸の奥が甘く疼くのを感じながら、「ごちそうさまでした、美味しかったです」と、ホット柚子茶のお礼をもう一度伝えた。
この契約結婚が、ただの「契約」で終わらなくなる日は、そう遠くないのかもしれない。




