「週末の段ボールと、封印された卒業アルバム」
契約結婚に伴う引っ越しは、必要最低限の荷物だけを持って蒼馬のマンションへ移るという慌ただしいものだった。
そのため、真紀の古いワンルームマンションには、まだ細々とした私物が残されたままになっていた。
「よし、今日で全部片付けるぞ……!」
土曜日の朝。真紀が気合を入れて古いマンションへ向かおうと玄関のドアを開けた瞬間、背後からスッと長い腕が伸びてきてドアを抑えられた。
「……まさか、一人で妊婦に荷造りをさせるような薄情な夫だと、世間に思わせるつもりか?」
「へ? 蒼、馬さん……?」
振り返ると、そこには黒のタートルネックニットに身を包んだ蒼馬が立っていた。
普段の隙のない三つ揃えのスーツ姿とは違う、柔らかくも洗練された休日のカジュアルな装いに、真紀は思わずドキリとしてしまう。
「あ、いや、そんなつもりは……ただの片付けですし、休日はゆっくり休んでいただきたくて」
「行くぞ。車のエンジンはもうかけてある」
有無を言わさぬ蒼馬のペースに巻き込まれ、結局二人は揃って真紀の旧居へと向かうことになった。
数十分後。真紀の住んでいた手狭なワンルームに、長身の蒼馬が立っている光景はひどくアンバランスだった。
「蒼馬さんはそこに座っていてください! 埃っぽいですし、適当に私が箱に詰めますから!」
「……重い本や食器は僕がやる。君は座って指示だけ出していればいい」
結局、蒼馬は高級なニットの袖をまくり上げ、テキパキと本棚の整理を始めてしまった。
仕事の鬼は、引っ越し作業でも驚異的な効率を発揮するらしい。
申し訳なさに縮こまりながら、真紀も座ったままできる小物類の整理を進めていた。その時だった。
ドンッ。
蒼馬が本棚の上段から束で本を引き抜いた拍子に、一冊の分厚い本が床に滑り落ちた。
「あ、ごめんなさい、それ私やります」
真紀が手を伸ばして拾い上げたのは、深緑色の表紙をした古い本だった。
「わあ、懐かしい。これ、中学の卒業アルバムだ」
その言葉が出た瞬間、蒼馬の手がピタリと止まった。
「……卒業、アルバム?」
蒼馬の声が、普段の何倍も低く、そして微かに震えているように聞こえた。
「はい。実家から引っ越す時に間違えて持ってきちゃったみたいで、ずっと奥にしまいっぱなしだったんです。……あれ? そういえば私の中学時代って、どんな顔してたっけ」
真紀がふふっと笑いながら表紙を開こうとした、次の瞬間。
パシッ。
横から伸びてきた大きな手が、真紀の開こうとしたページを強引に押さえつけた。
「え……?」
「……見ない方がいい」
「ど、どうしてですか?」
顔を上げると、蒼馬の端正な顔に、かつてないほどの焦りの色が浮かんでいた。いつも冷静沈着な彼が、わずかに息を乱している。
「埃が……ひどい。それに、古い紙の匂いは、今の君の体調に障るかもしれない。つわりを誘発したらどうするんだ」
「で、でも、ちょっと見るくらいなら……」
「ダメだ。……どうしても、ダメだ」
必死さすら滲むその声色に、真紀は目を丸くした。
しかし直後、蒼馬の懸念は現実のものとなる。
舞い上がった細かい埃と古い紙の匂いが鼻をついた瞬間、真紀の胃がキュッと激しく縮み上がったのだ。
「うっ……!」
真紀は口元を押さえ、その場にうずくまった。
「真紀!」
蒼馬はアルバムを即座に遠くへ放り投げると、真紀の背中に大きな手を添え、優しく、何度もさすり始めた。
その手はとても温かく、彼が心底心配してくれていることが伝わってくる。
「ごめん……僕が無理に本を動かして、埃を立てたからだ……。少し横になろう。抱えるよ」
「あ、歩けます……っ、すみません……」
蒼馬に支えられながらベッドに横たわると、吐き気は少しずつ治まっていった。
(……びっくりした。今、下の名前で呼ばれた……?)
真紀がぼんやりとそんなことを考えている間、蒼馬はホッとしたように息を吐き、床に落ちた卒業アルバムを拾い上げて、中身が見えないよう一番下の段ボールの奥深くに封印した。
「……危なかった」
蒼馬のその小さな呟きは、真紀の耳には届かなかった。
中学時代。地味で目立たず、分厚い眼鏡をかけていた「自分」。唯一優しくしてくれた真紀への、長い長い片思い。
その秘密が暴かれるのは、もう少しだけ先のことになる。




