「秘密の通勤と、氷の専務の不器用な庇護」
タワーマンションでの同居生活が始まり、真紀が最初に直面したのは「朝の気まずさ」だった。
「おはようございます……」
「ああ、おはよう。体調はどうだ?」
ダイニングに向かうと、すでに完璧にスーツを着こなした蒼馬が、タブレットで経済ニュースをチェックしながらコーヒーを飲んでいた。
その向かいの席には、真紀のための温かいミルクが用意されている。
「あ、ありがとうございます。……あの、今日の出社なんですけど」
「当然、時間をずらして家を出る。僕と君が一緒にマンションから出てくるところを誰かに見られれば、面倒な噂が立つからな」
「そう、ですよね」
理路整然とした蒼馬の言葉に、真紀は小さく頷いた。
頭ではわかっている。
これは愛情のない契約結婚で、会社には秘密の関係だ。
一緒に仲良く通勤する理由なんてない。
それでも、冷たく突き放されたような寂しさを感じてしまう自分に、真紀は戸惑っていた。
数時間後の、オフィス。
「結城さん、ごめん! 会議室にこの資料の入ったダンボール、運んでおいてくれないかな?」
他部署の先輩社員から、ドンッと三箱ほどの重そうなダンボールを頼まれ、真紀は一瞬息を呑んだ。
妊娠二ヶ月。まだお腹は膨らんでいないが、流産の危険性も高いデリケートな時期だ。
重いものを持つのは極力避けたい。しかし、まだ誰にも妊娠を告げていない以上、断る正当な理由がなかった。
「あ、はい……わかりました」
無理をしないように、一箱ずつゆっくり運ぼう。そう決意して真紀がダンボールに手をかけた、その時だった。
「何をしている」
フロアに、凍りつくような低い声が響いた。
振り返ると、周囲の空気をピリッとさせるほどの威圧感を放ちながら、九条専務――蒼馬が立っていた。
「く、九条専務! いえ、会議の資料運びを……」
「君は今日の午後、重要なプレゼンを控えているはずだ。そんな力仕事をさせるために、君をこの部署に置いているわけではない」
蒼馬の鋭い視線が、仕事を押し付けた先輩社員を射抜く。
「誰でもできる物理的な運搬作業で、優秀な社員の体力を削るなど非効率の極みだ。総務の若手か、手の空いている男性社員にやらせなさい。……結城さんは、自席でプレゼンの最終確認を」
「は、はい! 申し訳ありません!」
先輩社員が慌ててダンボールを引き取り、周囲の社員たちも「さすが氷の専務、効率重視でシビアだ」とヒソヒソ囁き合っている。
しかし、真紀だけは気づいていた。去り際、蒼馬の視線が、心配そうに一瞬だけ真紀のお腹のあたりに向けられたことに。
(……もしかして、私とこの子を庇ってくれたの?)
徹底的に冷徹な上司を演じながら、不器用なまでに自分を守ろうとしてくれる。その事実に、真紀の胸の奥がギュッと締め付けられた。
その日の夜。
蒼馬がマンションに帰宅すると、ダイニングテーブルからは出汁の良い香りが漂っていた。
「おかえりなさい。あの、少し体調が良かったので、肉じゃがを作ってみたんですが……外で食べてきましたか?」
エプロン姿の真紀が恐る恐る尋ねると、蒼馬は少しだけ目を丸くし、ネクタイを緩めながらテーブルについた。
「……いや。まだだ」
「よかった。今、温めますね」
並んで座る、広すぎるダイニングテーブル。
蒼馬は無言で肉じゃがを口に運び、ふっと少しだけ目元を緩めた。
「美味しいです」
「ふふ、よかったです。……あの、蒼馬さん。今日は、会社で助けていただいて、ありがとうございました。私のお腹のこと、気遣ってくれたんですよね」
真紀が素直に礼を言うと、蒼馬はピタリと箸を止め、露骨に視線を逸らした。
「別に。僕はただ、専務として業務の効率化を図ったまでだ。勘違いしないでほしい」
「……ふふっ。はい、そういうことにしておきます」
相変わらずの冷たい言葉。しかし、ほんのりと赤く染まった蒼馬の耳元を見て、真紀は思わず笑みをこぼしてしまった。
住む世界も立場も違う格差恋愛。けれど、この「氷の専務」の素顔は、案外可愛らしい人なのかもしれない。
二人の距離は、誰にも秘密のオフィスラブを通じて、少しずつ、けれど確実に近づき始めていた。




