「タワーマンションと、カフェインレスの優しさ」
「契約結婚」の合意からわずか一週間後。
真紀は、都心の一等地にある高層タワーマンションの最上階で、ふかふかのスリッパを履いたまま呆然と立ち尽くしていた。
「ここが、今日から君の部屋だ。クローゼットのものは好きに使っていい」
案内されたゲストルームは、真紀がこれまで住んでいたワンルームの賃貸マンションが丸ごと入りそうな広さだった。
天蓋付きのベッドに、ホテルのような間接照明。
窓からは東京の夜景が一望できる。
「あの、九条専務……」
「家の中では蒼馬で構わない。誰がどこで聞いているかわからないからな」
ネクタイを緩めながら振り返った蒼馬は、相変わらず感情の読めない涼しい顔をしている。
「……蒼馬さん。いくらなんでも、広すぎませんか? それに、このカードって……」
真紀の手には、先ほど渡された家族カード(ブラックカード)が握られている。
「生活費だ。君は妊婦なんだから、必要なものは遠慮なく買えばいい。食事も無理して作る必要はない。家事代行を頼むか、デリバリーを使え」
「そんな! 私は家政婦代わりにでも働いて少しでもお返しを……」
「君の仕事は、僕の『妻』という体裁を保つことと、そのお腹の子を無事に育てることだ。それ以上の労働は契約外だよ」
ピシャリと告げられ、真紀は口をつぐんだ。
(どこまでも合理的で、ビジネスライク……。でも、そうよね。これは愛情のない契約なんだから)
あまりにも住む世界が違う格差恋愛どころか、ただの格差同居だ。
真紀は孤独感とプレッシャーで、思わず小さくため息をついた。
その様子をじっと見ていた蒼馬が、ふとリビングのキッチンへ向かった。
しばらくして、彼の手から温かいマグカップが差し出される。
「……これ」
「ありがとうございます。あの、これは?」
「ルイボスティーだ。君の好きな深煎りのコーヒーは、今は無理だろうから」
真紀はハッとして蒼馬の顔を見上げた。
彼自身はコーヒーメーカーで淹れたブラックコーヒーを飲んでいるのに、わざわざ真紀のためにカフェインレスで、しかも妊婦に良いとされるお茶を調べて淹れてくれたのだ。
「……調べてくださったんですか?」
「専務たるもの、共同経営者の体調管理は怠らない主義なだけだ」
蒼馬はそっぽを向きながら、マグカップに口をつけた。
真紀は両手で温かいマグカップを包み込み、一口すする。
香ばしくて優しい味が、冷えていたお腹の底からじんわりと広がっていった。
「美味しい……。ありがとうございます」
フッと顔をほころばせて笑った真紀を見て、蒼馬のマグカップを持つ手がピタリと止まった。
「……昔から、温かいものを飲むと、そうやって目を細めて笑うな」
「え?」
真紀は不思議そうに小首を傾げた。
「昔からって……私たち、出会ってまだ二ヶ月くらいですよね?」
蒼馬はしまったというように一瞬だけ目を伏せると、慌てて冷たい表情を取り繕った。
「……いや。気のせいだ。とにかく、今日は疲れただろうから早く休むといい」
そう言って、蒼馬は自分の寝室へと早足に消えてしまった。
一人残された真紀は、ポツンと広いリビングで首を傾げる。
(変なの。昔から知ってるみたいな言い方……)
でも、あの冷徹な「氷の専務」が、不器用ながらも自分を気遣ってくれた事実が、真紀の胸の奥に小さな、けれど確かな温かい灯りをともしていた。
ただの契約。そう言い聞かせているはずなのに。




