「忘れられない夜と、予期せぬプレゼント」
「……っ」
朝礼の列の最後尾で、真紀は心臓が口から飛び出そうになるのを必死に堪えていた。
前に立つ新任の専務・九条蒼馬は、一切の感情を排したような冷徹な表情で着任の挨拶をしている。
昨夜、シーツの中で甘く溶けたような笑顔を見せていた男とは、まるで別人のようだった。
(嘘。どうして彼がここに……しかも親会社から来た専務!?)
御曹司のエリートと、子会社の一介の中堅社員。
ただでさえ住む世界が違うというのに、自分はその上司とあろうことかワンナイトを決めてしまったのだ。
穴があったら入りたい。
いや、いっそ埋めてほしい。
朝礼が終わり、社員たちがぞろぞろと自席へ戻り始める中、真紀は下を向いて足早にその場を離れようとした。
しかし、役員室へ向かう蒼馬と、運悪くすれ違ってしまう。
息を詰め、存在を消すように通り過ぎようとした瞬間。
「昨夜は……よく眠れましたか? 結城さん」
すれ違いざま、真紀にしか聞こえないほどの低い声で、ポツリと囁かれた。
ビクッと肩を震わせて振り返ったが、蒼馬はもうこちらを見ていなかった。
ただの冷徹な新任専務として、背筋を伸ばして歩み去っていく。
(バレてる……! しかも、私の名前、もう知ってるの!?)
どうやら「なかったこと」にして逃げ切るのは不可能なようだ。
真紀はその日から、極力蒼馬の視界に入らないよう、忍者のように気配を消して仕事に没頭するようになった。
蒼馬は噂通りの仕事の鬼で、社内ではすぐに「氷の専務」と恐れられる存在になったが、なぜか真紀に対してだけは、すれ違うたびに意味深な視線を送ってくるのだった。
――それから、約二ヶ月後。
真紀はオフィスで、信じられないほどの疲労感に襲われていた。
「結城さん、最近顔色悪いよ? 休んだら?」
同僚が心配して声をかけてくれるが、「ちょっと疲れが溜まってるだけ」と笑ってごまかす。
(最近、ずっと体がだるいし熱っぽい。それに……)
気分転換をしようと給湯室に向かい、いつものようにお気に入りのドリップコーヒーを淹れようと封を開けた瞬間だった。
「……っ!」
強烈な吐き気が胃の底から込み上げてきた。
大好きなはずの、あの深く芳醇なコーヒーの香りが、今はひどく鼻をつき、気持ち悪い。
真紀は口元を押さえ、トイレに駆け込んだ。
洗面台の鏡に映る、青白い自分の顔。
ストレスだと思い込んでいたが、よく考えれば生理もずっときていない。
微熱が続いていること。そして、この特定の匂いに対する吐き気。
32歳の大人として、その症状が何を意味するのか、嫌でも想像がついてしまう。
「嘘でしょ……まさか……」
その日の午後、半休を取って駆け込んだ産婦人科で、真紀は医師から決定的な言葉を告げられた。
『おめでとうございます。妊娠二ヶ月ですね』
渡されたエコー写真には、小さな小さな命の影が映っていた。
病院を出た真紀は、秋の冷たい風に吹かれながら、ベンチに力なく座り込んだ。
子どもを授かった。お腹の中に、あの人の子どもが。
嬉しさよりも、圧倒的なパニックと不安が押し寄せてくる。
相手は、親会社の御曹司で、冷徹で通っている直属の上司だ。
おまけに「一夜限りの関係」でできた子どもだなんて、とてもじゃないが言えるわけがない。
言えば、彼のキャリアに傷をつけるかもしれないし、「責任を取れというのか」と軽蔑されるに決まっている。
(一人で産む? 私一人で、この子を……?)
ぐるぐると答えの出ない思考を巡らせていると、不意に、頭上から影が落ちた。
「こんな平日の昼間に、公園でため息とは。サボりですか?」
「……え?」
顔を上げると、そこには完璧なスーツを着こなした九条蒼馬が立っていた。
外回りだったのか、片手にはビジネスバッグを持っている。
「く、九条専務……! どうしてここに……」
「通りかかっただけです。それより、ひどい顔色ですね」
蒼馬は眉をひそめ、真紀の手元に視線を落とした。
真紀はハッとして、持っていたエコー写真が入った封筒を慌てて背中に隠す。
しかし、鋭い蒼馬の目は、封筒に印字された『レディースクリニック』の文字を見逃さなかった。
「……結城さん。何か、僕に隠していることはありませんか?」
逃げ場を失うような、強く、真っ直ぐな瞳。
真紀は息を呑み、彼を見上げることしかできなかった。




