「お見合いのち、極上コーヒーと一夜の過ち」
「はぁ……またダメだった」
休日の夕暮れ時。ホテルのラウンジを出た真紀(32)は、ヒールの音を響かせながら深いため息をついた。
母親に泣きつかれて渋々参加したお見合いだったが、相手の男性は終始自分の自慢話ばかり。
適当に相槌を打つだけで、真紀の心は1ミリも動かなかった。
(仕事は順調。一人でも生きていける。でも、ふとした瞬間に猛烈な孤独を感じる……私、恋愛の仕方、すっかり忘れちゃったな)
乾いた心と疲れた体を癒やすため、真紀は帰る前に、最近見つけたお気に入りの路地裏の喫茶店に立ち寄ることにした。
重厚な木のドアを開けると、自家焙煎のコーヒーの深い香りが鼻をくすぐる。
真紀の唯一の趣味は、こうして極上のコーヒーを味わうことだった。
カウンター席の端に座り、いつもの深煎りブレンドを頼む。
一口飲んでホッと息を吐き出したその時、隣の席に座っていたスーツ姿の男性から不意に声をかけられた。
「良い香りですね。もしかして、グアテマラの深煎りですか?」
驚いて隣を見ると、そこには息を呑むほど整った顔立ちの男性が座っていた。
少し疲れたような、けれど知的な瞳が真紀を見つめている。
「あ、はい。ここのマスターが淹れるグアテマラが好きで……」
「奇遇ですね。僕も同じものを頼もうと思っていました」
男性の落ち着いた低い声と、コーヒーの好みが同じという偶然に、真紀の警戒心は不思議と解けていった。
そこから二人は、酸味と苦味のバランス、お気に入りの豆の産地など、趣味の話題で静かに盛り上がった。
「もしよかったら、この後少しだけ飲みませんか? 美味しいワインの店を知っているんです」
普段の真紀なら、見知らぬ男性の誘いには絶対に乗らない。
けれど、お見合いの疲労感と、彼と過ごす心地よい空気、そして何より「このまま一人で家に帰りたくない」という夜の魔力が、真紀の背中を押した。
――それから数時間後。
気がつけば、真紀はシティホテルの柔らかいベッドの中で目を覚ましていた。
隣には、シーツを被って穏やかな寝息を立てるあの彼がいる。
散乱した自分の服を見て、真紀はパニックに陥った。
(嘘でしょ……!? 5年も恋人がいなかったのに、いきなりワンナイト……!?)
自己嫌悪と羞恥心で顔から火が出そうになりながら、真紀は彼を起こさないようにそっと服を着て、逃げるようにホテルを後にした。
もう二度と会うことはない。ただの甘い、一夜の過ちだ。
そう自分に言い聞かせて。
しかし、運命はそう甘くはなかった。
翌日の月曜日。
いつも通り出社した真紀は、朝の全体朝礼で息を止めることになった。
「本日付で、親会社より専務取締役として赴任してまいりました、九条蒼馬です」
ざわめくオフィス。女子社員たちの「イケメン!」「御曹司らしいよ」という黄色い声援。
前に立って冷徹な視線を社員たちに向けるその男は、間違いなく、昨晩甘い声で真紀の耳元を囁いた、あの彼だったのだから。




