「実家への挨拶と、17年分の誠意」
会社での堂々たる「夫婦宣言」から数週間後。
真紀と蒼馬の周囲は、見違えるほど穏やかで平和なものになっていた。
コソコソと時間をずらして出勤する必要もなくなり、時には一緒にランチに出ることもできる。
秘密の共有も楽しかったが、堂々と隣を歩ける今の幸せは、何にも代えがたいものだった。
しかし、真紀にはまだ、一つだけ越えなければならない大きな山が残されていた。
「……蒼馬さん、本当にこの手土産でよかったんでしょうか。桐箱に入った高級メロンなんて、うちの両親、震え上がっちゃうかも……」
「初めての挨拶だ。これでも控えめにしたつもりなんだが」
週末。蒼馬の運転する車で向かっているのは、都内から少し離れた真紀の実家だった。
妊娠も安定期に入りつつある今、これ以上報告を遅らせるわけにはいかない。
「お見合い」を断って以来、連絡を渋っていた両親に、結婚と妊娠をまとめて報告するという特大のミッションである。
実家に到着し、古びた一軒家の玄関のチャイムを鳴らす。
「はーい……あらっ!」
出迎えた母親は、真紀の隣に立つ完璧なスーツ姿の蒼馬を見て、完全に言葉を失っていた。
オーラのある長身の美丈夫が、桐箱を抱えて立っているのだから無理もない。
「初めまして。九条蒼馬と申します」
蒼馬の低く落ち着いた声に、母親はハッとして慌てて二人を居間へと通した。
居間では、堅物な父親が腕を組んで座っていた。
「……話は聞いている。真紀の勤め先の、親会社の専務だそうだな」
父親の視線は、明らかに警戒心を帯びていた。無理もない。娘が突然連れてきた相手が、住む世界の違う「御曹司」で、しかもすでに妊娠しているのだ。遊びではないかと疑う親心は当然だった。
「はい。順序が逆になってしまい、大変申し訳ありませんでした」
蒼馬は畳の上に正座し、深く、そして長いお辞儀をした。そのあまりにも美しい所作に、父親の肩がピクッと動く。
「……専務さん。うちはしがない一般家庭です。あなたがどれだけ立派な肩書きを持っていようと、真紀を泣かせるような男なら、私は絶対にこの結婚を認めません」
父親が絞り出すように言うと、隣で母親がオロオロと真紀の袖を引いた。
「お父さん、そんな言い方……」
「いいえ、お父様のおっしゃる通りです」
顔を上げた蒼馬の瞳は、これ以上ないほど真剣だった。
「本日は、九条家の専務としてではなく、一人の男としてご挨拶に伺いました。……お義父さん、お義母さん。僕のことを、覚えていらっしゃいませんか」
「え?」
真紀の両親がポカンと顔を見合わせる。真紀も驚いて蒼馬の横顔を見つめた。
「僕は、真紀さんと同じ『桜ヶ丘中学校』の出身です。
当時、熱を出して保健室で寝込んでいた僕に、真紀さんが温かいお茶を淹れてくれたことがありました。
お二人の育てた娘さんは、誰にも見向きもされなかった地味な僕に、誰よりも優しく接してくれたんです」
蒼馬は、言葉を一つ一つ噛み締めるように紡いでいく。
「あの日から17年間。僕はずっと、真紀さんのことだけを愛してきました。これは一時の気の迷いなどではありません。僕の、生涯をかけた初恋です」
静まり返る居間。
父親の組まれていた腕が、ゆっくりと解かれていく。
母親は目元をハンカチで押さえ、すでにポロポロと涙をこぼしていた。
「17年……ずっと、うちの真紀を……?」
「はい。順序は間違えてしまいましたが、僕の命に代えても、真紀さんとお腹の子どもを一生大切にすると誓います。どうか、真紀さんを僕にください」
再び深く頭を下げる蒼馬。
その広く逞しい背中を見つめながら、真紀の胸も熱いものでいっぱいになっていた。
(蒼馬さん……私の両親にまで、こんなに真っ直ぐに想いを伝えてくれるなんて)
「……頭を上げてください、九条さん」
沈黙を破ったのは、父親の震える声だった。
「こんな不器用な娘を、17年も想い続けてくれた……。父親として、これ以上嬉しいことはありません。真紀のこと、どうかよろしくお願いします」
「ありがとうございます……っ!」
真紀もこらえきれず、畳に手をついて涙をこぼした。
帰りの車内。
「緊張した……重要なプレゼンより、何倍も心臓に悪かった」
ネクタイを緩め、大きく息を吐き出す蒼馬を見て、真紀はふふっと笑い出した。
「氷の専務にも、怖いものがあったんですね。でも……世界で一番、かっこよかったです。お父さんたちを安心させてくれて、ありがとう」
愛のない契約から始まった関係は、両親からの温かい祝福を受け、誰の目から見ても疑いようのない「本物の家族」へと結実したのだった。




