「人事部のどよめきと、氷の専務の公開宣言」
妊娠も4ヶ月(12週)に入り、真紀の体調は随分と安定してきた。
つわりが治まったのはありがたいが、お腹の膨らみはこれから少しずつ目立ち始める。
それに伴い、避けては通れないミッションが一つ残されていた。
「……はぁ。ついにこの日が来てしまった」
月曜日の昼休み。真紀は自席で、一枚の書類を見つめて深い深呼吸をした。
『身上異動届』および『産前産後休暇取得予定表』。
戸籍上はすでに「九条」になっていた真紀だが、会社には旧姓の「結城」で通し、結婚の事実を隠蔽してきた。
しかし、産休・育休の申請や社会保険の手続き上、これ以上人事に隠し通すことは不可能な時期に来ていたのだ。
(格差恋愛どころか、親会社の御曹司と子会社の平社員のデキ婚……。絶対、社内で大騒ぎになる)
胃が痛くなる思いで、真紀はこっそりと人事部の担当者の元へ書類を提出しに行った。
「結城さん、結婚とご懐妊おめでとうございます! ええと、新しい苗字は……く、九条?」
「あ、はい……」
「配偶者欄……九条、蒼馬……? え? ええっ!?」
担当者が素頓狂な声を上げたのを皮切りに、事態は真紀の予想を遥かに超えるスピードで転がっていった。
その日の午後。
真紀が自部署に戻ると、フロアの空気が異様にザワついていた。
「結城さん! ちょっと、これどういうこと!?」
お局の先輩社員が、血相を変えて真紀のデスクに駆け寄ってきた。
その後ろには、野次馬と化した同僚たちがズラリと並んでいる。
「人事のポータルサイト、配偶者の名前変更速報に結城さんの名前があったんだけど……相手、九条専務って本当!?」
「えっ、あ、それは……」
「嘘でしょ、なんで専務と結城さんが!? まさか、妊娠してるって噂も……」
隠しきれない。
真紀が覚悟を決めて口を開こうとした、その瞬間だった。
「――僕の妻が、何か?」
フロアに、空気を一瞬で凍りつかせるような低く冷たい声が響き渡った。
モーセの十戒のように人だかりがサッと割れ、その奥から、完璧なスーツを着こなした蒼馬が静かな怒りを纏って歩いてくる。
「く、九条専務……っ!」
「就業時間中に、一人の社員のデスクを囲んで何の騒ぎですか。彼女の体調に障ったらどう責任を取るつもりだ」
蒼馬は真紀の隣に立つと、怯える社員たちを一瞥し、そしてフロア全体によく通る声で、はっきりと宣言した。
「隠していて申し訳なかった。ここにいる九条真紀は、僕の戸籍上の妻であり、現在、僕たちの大切な子どもを身籠っている」
シン……と、フロアが水を打ったように静まり返る。
「彼女の仕事ぶりを評価し、結婚に至ったのは僕の強い意志だ。もし、この件に関して彼女に心無い噂を立てたり、不用意なストレスを与えたりする者がいれば、僕が直接対処する。……いいね?」
「氷の専務」による、圧倒的な威圧感と、妻への絶対的な庇護。
誰もが一言も発せない中、蒼馬はスッと表情を和らげ、真紀の方を振り返った。
「真紀。気分は悪くないか? 騒がせてすまなかった」
「蒼馬、さん……」
さっきまでの冷徹な声とは打って変わった、甘く優しい声。
そのとんでもないギャップに、周囲の女子社員たちが「ヒッ」と息を呑み、次々と顔を赤くして崩れ落ちそうになっている。
「大丈夫です。でも、こんなに堂々と宣言して……よかったんですか?」
「当然だ。僕はずっと、君を自分の妻だと見せびらかしたくてウズウズしていたんだから」
呆然とする社員たちをよそに、蒼馬は真紀の頭をポンポンと優しく撫でた。
こうして、二人の秘密の関係は、最も劇的で、最も安全な形で幕を下ろした。
これからはもうコソコソする必要はない。堂々と、二人で一つの命を育んでいけるのだ。
真紀は胸いっぱいに広がる安心感とともに、目の前の頼もしい夫に、とびきりの笑顔を向けた。




