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「一つの寝室と、エレベーター内の秘密」

「契約」の証だったダミーの指輪を外し、本物の婚約指輪を受け取ったあの日から。


二人のタワーマンションでの生活は、劇的な変化を遂げていた。


「ん……」


朝、真紀が目を覚ますと、すぐ目の前に端正な寝顔があった。


規則正しい寝息を立てる蒼馬の長い腕が、真紀の腰にしっかりと回され、逃がさないとばかりに抱き寄せられている。


本当の夫婦になったその日の夜、「別々の寝室にする理由はもうないだろう」という蒼馬の鶴の一声で、真紀の荷物はすべて彼の広いマスターベッドルームへと移動されたのだ。


「……おはよう、真紀」


「あ、おはようございます。起こしちゃいましたか?」


「いや。……もう少し、このままで」


寝起きの掠れた低い声。蒼馬は真紀の首筋に顔を埋め、甘えるようにすり寄ってくる。


普段の「氷の専務」からは想像もつかない無防備な姿に、真紀の胸は朝からキュンと鳴りっぱなしだった。


「蒼馬さん、そろそろ起きないと。遅刻しますよ」


「君と離れるくらいなら、いっそこのまま有給を……」


「ダメです! ほら、起きて!」


すっかり甘党になってしまった夫をなだめすかし、真紀はベッドを抜け出した。


――数時間後、オフィス。


「結城さん、この資料、専務室に届けてもらえるかな?」


「はい、承知いたしました」


会社では、二人の関係はまだ秘密のままだ。


真紀は胸元を小さく押さえた。


ブラウスの下には、蒼馬から贈られたあの美しいダイヤモンドの婚約指輪が、チェーンに通されてネックレスとして密かに肌に触れている。


大きすぎるダイヤは社内で悪目立ちしてしまうため、「会社では隠しておきたい」と提案した真紀に対する、蒼馬なりの妥協案だった。


専務室のある最上階へ向かうため、真紀はエレベーターに乗り込んだ。


扉が閉まりかけたその時。


「開けるぞ」


スッと差し込まれた手によって扉が開き、長身のスーツ姿が乗り込んできた。


「く、九条専務……」


「ああ、結城さんか」


乗り込んできたのは、他でもない蒼馬だった。


周囲に誰もいないことを確認すると、エレベーターの扉が閉まり、箱の中は二人きりの密室になった。


「……奇遇ですね、専務」


真紀がクスッと笑いながら小声で言うと、蒼馬はネクタイを少し緩め、真紀の隣に並んで立った。


「奇遇じゃない。君が専務室にお使いを頼まれたと聞いて、わざわざ下の階まで迎えに行ったんだ」


「えっ? もし誰かに見られたらどうするんですか」


「防犯カメラの死角は把握している。それに……」


蒼馬は真紀の耳元にスッと顔を寄せた。


「朝、君が冷たく僕をベッドから追い出したから、エネルギーが足りない」


「っ……!」


チュッ、と。


エレベーターが上昇するわずかな時間の間に、真紀の頬に熱いリップ音が落ちた。


「そ、蒼馬さん……っ、会社ですよ!?」


「会社では『専務』だ。……顔が赤いぞ、結城君」


顔を真っ赤にして抗議する真紀を見て、蒼馬は意地悪そうに、けれど底抜けに甘い笑みを浮かべた。


チンッ、と軽快な音が鳴り、目的の階に到着する。


扉が開く直前、蒼馬は瞬時に冷徹な「氷の専務」の仮面を被り直し、何事もなかったかのように廊下へと歩み出て行った。


(もう……本当に、ずるい人なんだから)


残された真紀は、火照る頬を両手で押さえながら、ブラウスの下にある冷たいダイヤの感触をそっと握りしめた。


愛のない契約結婚の時には辛かった「会社での秘密」が、今はこんなにも甘く、スリリングなスパイスになっている。


大人の秘密の関係は、これからが本番のようだ。

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