幕間-1 香坂 翠
その日も、いつもと変わらない一日だった。
いつもの時間に起きて。
いつもの電車に乗り。
いつもの会社へ出勤する。
比較的小さな事務所。
人数もそれほど多くない。
みんな和気藹々としていて、効率のためと言いながら適度に休憩を挟み、適度に雑談をしながら仕事を進めている。
忙しい時期でもなければ、残業もほとんどない。
翠は、そんな職場を気に入っていた。
終業間際。
隣から声が掛かった。
「翠~、この後の予定は? 夕食いかない? 何人か一緒に行くって誘ってるんだけど」
「あー、大丈夫だよ。今からすぐ?」
「そうね。A社の人にも声かけてるみたいだから、駅前に十九時頃かな」
「えっ……A社って、あの人も?」
「そう。おそらくねー。あっちからのお誘いだったし」
「やめようかなぁ……ぐいぐい来るし、苦手なのよ」
「翠、もてるもんねぇ」
にやにやと笑われる。
「そこらのタレントなんて目じゃないくらいなのに、その癖、恋人もいないし。そろそろ落ち着けば?」
「う。る。さ。い。わたしも一応端くれでしたので!!」
「なにそれ。でももう、三十五でしょ? そろそろラストチャンスじゃん。A社なんて有望よ?」
「誰も好きで独り身でいるわけじゃないのよ! この歳になると、もう独身の方が楽なの!」
「翠、趣味も変わってるしさ。お札マニアじゃない。お金は気兼ねなく使うものよ? そんなニッチな趣味に付き合ってくれる人なんて、この先なかなか現れないと思うけど」
「そういうあなたなんて別居中じゃないっ。結婚なんて墓場だわ」
「あー。やぶ蛇……」
友人が視線を逸らした。
「じゃ、駅前でね。待ってるよ!」
「え、ちょっと。まだ行くって――」
もういない。
「……人の話を聞け」
結局。
嫌々ながら待ち合わせ場所へ向かった。
食事会。
というか。
コンパ?
いや。
三十五にもなってコンパというのもどうなのだろう。
適当に飲み。
適当に話を合わせ。
A社の例の男から相変わらずぐいぐい来られ。
適当にかわす。
特に何事もなく。
つつがなく。
食事会は終了した。
「疲れた……」
終電までには十分余裕がある。
翠は一人、帰路についた。
◇
自宅マンション。
「なんか、ひどい目にあったなぁ……」
鞄を置き。
上着を脱ぐ。
「最近は親までうるさいし……人をなんだと思ってるのよ」
三十五歳。
独身。
「私はミレニアム問題で世界が滅ぶ方に賭けてたんだけどなぁ……」
大きくため息をつく。
「ノストラダムス、どこ行ったのよ!」
もちろん。
どちらも何事もなく終わった。
シャワーを浴び。
髪を乾かし。
就寝の準備を済ませる。
ベッドへ腰掛けたところで、ふとaPodを手に取った。
最近、気に入っている曲がある。
歌手名は、ao。デビュー以来一度もメディアに露出していない、珍しい歌手
最初にCDを手に取ったときは、変わった名前の歌手だと思った。そして衝撃を受けた。
けれど。
何度か聞いているうちに、忘れられない曲なっていった。
「今日も一日ご苦労様。よく働いたよ、私」
自分で自分を労う。
いつものようにお気に入りの曲を流す。
そのまま。
翠は、いつの間にか眠りについた。
◇
翌朝。
少し早めに目が覚めた。
いつものように準備をする。
いつものように家を出る。
いつもの電車。
いつもの乗り換え。
会社の最寄り駅で降りる。
改札を出る。
駅舎を出る。
「……あれ?」
足が止まった。
いつも見ていたビルがない。
「え?」
雑貨店がない。
他にも。
見慣れていた建物が、いくつも消えている。
道そのものは知っている。
駅も。
交差点も。
道路の形も。
なのに。
景色が違う。
「なにこれ……?」
翠は少しパニックになった。
周囲を見回す。
走っている車が古い。
看板も違う。
歩いている人間の服装まで、どこか妙だった。
「えっ……どこ? ここは……」
慌てて駅へ戻る。
改札を見る。
「……違う」
さっき通った改札とは違う。
いや。
場所は同じだ。
ただ。
古めかしい。
「何なのよ、これ……」
落ち着け。
そう自分に言い聞かせながら、駅構内を見回した。
その時。
「……ん?」
ゴミ箱。
乱雑に放り込まれている紙幣が目に入った。
「誰よ……」
思わず近寄る。
「こんな勿体ないことを……」
手に取った。
「……何、これ」
見たことのないお札。
妙に精巧だった。
玩具には見えない。
ホログラムまで入っている。
「偽札……?」
他にもある。
その中には。
見覚えのある千円札も何枚か混じっていた。
「あれ?」
これは知っている。
今使っているのと同じ千円札。
……のはずだった。
ふと。
記番号に目が行った。
「……茶色?」
もう一度見る。
「黒じゃなかった?」
少なくとも。
自分が普段見ているものとは違う。
「偽造かなぁ……」
だが。
わざわざこんな細かな部分を変える意味が分からない。
そして。
もう一度、見たことのない紙幣を見る。
こちらは肖像まで違う。
ホログラムも精巧。
「……未来?」
口にしてから。
「まさかぁ……」
自分で否定した。
未来のお札と。
妙に古い千円札。
そして。
明らかに昔のような駅。
「……いやいやいや」
新聞。
新聞を見れば日付が分かる。
売店を探す。
すぐに見つかった。
新聞を手に取る。
日付。
「…………」
一九九〇年七月。
何度見る。
一九九〇年七月。
「……嘘でしょ」
その横。
本日の占い。
十二位。
「…………最悪」
凹んだ。
◇
しばらく。
翠は駅のベンチに座っていた。
「一九九〇年……」
十五年以上前。
どう考えても意味が分からない。
鞄を開く。
財布。
携帯電話。
aPod。
昨夜まで使っていた物が、普通に入っている。
携帯電話を見る。
当然。
圏外。
「まあ……そうなるよね」
そこで。
ふと気がついた。
「……あれ?」
自分の手。
何かが違う。
手の甲。
肌。
指。
明らかに若い。
「ちょっと待って」
立ち上がる。
駅のガラスへ近づく。
そこに映った自分を見る。
「…………」
若い。
どう見ても。
三十五歳ではない。
「何これ……」
頬に触れる。
髪を見る。
顔を見る。
「……二十歳くらい?」
いや。
その前後。
少なくとも。
自分が東京へ出てきた頃と、そう変わらない。
「時間だけじゃなくて……私まで?」
しばらく。
ガラスに映った自分を見つめていた。
「……若返ってる」
意味が分からない。
でも。
さっきより少しだけ。
やるべきことが見えてきた。
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