第3話 崩壊した日常
互識は空を見上げた。
空そのものは、いつもと変わらない。
……いや。
違う。
「なんだ、この匂い……」
鼻を突く排ガス臭。
どこからか流れてくる、タバコの匂い。
空も、心なしか霞んで見える。
気づいてしまうと、さっきまで何も感じなかったことの方が不思議だった。
季節はもう秋に入っている。
朝の日差しなら、まだそれほど強くないはずだ。
なのに。
「……暑くないか?」
通りを照らす日差しが、じりじりと肌を焼く。
夏の朝のような暑さだった。
そこで、ふと思う。
なぜ、今まで気づかなかった?
朝。
寝過ごした。
いつもより遅い時間に目を覚まして、慌ててシャワーを浴びて家を飛び出した。
駅まで早足。
乗った電車も一本遅かった。
遅刻しないことしか頭になかった。
運良く途中で席が空いてからは、今度はアオに今日の予定を確認させていた。
十時から定例会議。
十三時三十分からサーバー更新の打ち合わせ。
その先は聞きたくなくなって途中で止めた。
いつもの会社までの通勤ルート。
スマホを再び触りながら、電車の中で聞くのをやめた今日の予定を思案していた。
よくある日常行動……のはずだった。
何一つ、まともに見ていなかった。
「……俺、どんだけ会社行くことしか考えてなかったんだよ」
今さらながら周囲を見渡す。
まず目についたのは、人だった。
「…………」
有線イヤホンを耳につけている人間が多い。
それだけではない。
中には、今ではあまり見かけなくなった大きなヘッドホンをつけて歩いている者までいる。
「なんだ……?」
今度は自分の耳が気になった。
いつものオープンイヤー型ヘッドセット。
そこは変わっていない。
鞄もある。
服も、今朝着てきたものだ。
腕時計も変わらない。
変わっているのは――。
周りだ。
「アオ」
『はい』
「ここ、どこだ?」
『目的地は前方です』
「道、間違えてないよな?」
『私のナビゲートに問題はありませんでした』
「じゃあ、ここは?」
『目的地は前方です』
「いや、そうじゃなくてさ……」
もう一度、周囲を見る。
「なんで有線イヤホンつけてる人がこんなに多いんだ? 突然流行ったのか? そんなニュースあったか、最近」
『周囲で使用されているものは、カセット式などのポータブルオーディオ機器と思われます』
「カセット?」
思わず聞き返す。
前を歩いている男の腰を見る。
ベルト付近に、四角い機械が付いている。
そこから細いコードが耳まで伸びていた。
「あー……レトロブーム?」
そういうものは何度もあった。
昭和。
平成。
昔のファッション。
昔のゲーム。
カセットテープだって、若い連中の間で再評価された時期がある。
「時代は回帰するっていうしなぁ……平成ブームも来たし」
『その可能性は否定できません』
「だよな」
そう言ってから、道路の向こうを見る。
昨日まであったドラッグストアがない。
コンビニもない。
見慣れた雑居ビルもない。
走っている車も、妙に古い。
「…………」
レトロブーム。
有線イヤホン。
カセット。
古い車。
そこまでは、まだいい。
「……街並みまで変わるか?」
道路標識。
看板。
店の外観。
広告。
どれもこれも、古い。
少し古い、という程度ではない。
街そのものが。
丸ごと。
「映画のセットか……?」
口にしてみる。
自分で言っておいて、無理があると思った。
朝の通勤時間帯に。
駅から会社までの街全体を使って。
映画の撮影。
「……いやいやいや」
そんなわけがない。
そう思いながら。
互識は、もう一度周囲を見渡した。
いつも見慣れていた通りとは、少しどころではなく違っていた。
通い慣れた定食屋。
コンビニ。
ドラッグストア。
何もかもが違う。
いや。
違うというより――。
「新しい……? いや、古いのか?」
デザインが違う。
看板が違う。
建物の外壁も、窓枠も、店先に並んでいる物も違う。
「…………」
ここは、どこだ。
そこで。
俺の頭に、一つの可能性が浮かんだ。
「……異世界転生?」
『はい?』
「ついに神は俺を選択したのか……! 人生いままで、妻子なし! 条件達成か!?」
『何を言っているのでしょうか』
少しテンションが上がった。
「アオ! ラノベの世界はすげぇな! 異世界だ、異世界!」
『周囲の確認を行いました』
「おう!」
『ここは間違いなく、互識さんが住んでいた街です』
「…………」
『そして、現在地は目的地前で間違いありません』
「…………?」
待て。
「いや、だからほら。異世界だよな?」
『違うと思われます』
「じゃあ現代ファンタジーか!?」
『はい?』
「ほら、異能バトル! 能力に目覚めるやつ!」
『とてもそのようには見えません』
「まだ分からんだろ!」
『現実逃避はするべきではないかと進言します』
「…………」
冷たい。
こういう時くらい夢を見させろ。
「じゃあ、ここは何なんだよ?」
その時だった。
視界の端に、コンビニらしき店が入った。
見覚えのあるチェーン名。
なのに店舗が妙に古い。
入口横のガラス越しに新聞が見えた。
何となく。
本当に、何となくだった。
大きく書かれた日付が目に入る。
一九九〇年七月――日。
その横には、呑気に。
『今日の占い』
と書いてある。
「…………は?」
立ち止まった。
もう一度見る。
一九九〇年。
七月。
「…………」
俺は空を見る。
街を見る。
新聞を見る。
もう一回新聞を見る。
「俺……大吉だった。」
『はい?』
「異世界、行けてないの?」
『少なくとも、異世界であることを示す情報は確認できません』
「…………」
がっくりきた。
いや待て。
まだだ。
「目覚めろ、俺……!」
『何をしているのですか?』
「異世界じゃないなら、何かあるだろ! 特別な力!」
右手を見る。
握る。
「出ろ……!」
『…………』
「出ろ……出ろ……!」
『…………』
「デロォォ……!」
『周囲から奇異の目で見られています』
「…………」
『そろそろおやめになった方がよろしいかと』
顔を上げる。
少し離れたところにいたサラリーマン風の男と目が合った。
逸らされた。
女子学生らしき二人組が、こっちを見ながら何か話している。
「…………」
俺は静かに右手を下ろした。
「……神様に選ばれてない」
『そのようですね』
「そこは否定しろよ」
『根拠がありません』
愕然とした。
異世界でもない。
異能世界でもない。
マルチバースの世界ではなかった。
ただの過去。
「……白昼夢か」
笑えてきた。
「はは……」
夢なら、もう少し夢を持たせてほしかった。
「次の夢は、もっといいの頼むぞ。神様」
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