艦長の反省
◇
同じころ、艦長室にもコーヒーの香りが立ち込めていた。
机の端に置いたカップからは、もう湯気がほとんど立っていない。
初めての出撃命令。
初めてのブリーフィングとは比べものにならないほど緊張していた。
自分の判断で人間を飛ばす。
自分の責任で航路を決めた。
敵と接触した場合の方針も、自分が決めた。
正しいのかは分からない。
間違っていたとしても、その結果を受けるのは俺ではなく、これから飛ぶパイロットたちだ。
「また、コーヒーを冷ましているのね」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、副長のミレア・クロイツ少佐が艦長室へ入ってきたところだった。
「ノックはしたわ」
「聞こえなかった」
「そうでしょうね」
ミレアは俺の向かいまで来ると、机の上のカップを見下ろした。
「昔から、考え込むと周囲の音が聞こえなくなる」
「昔の話だ」
「士官学校を卒業してから、それほど経っていないでしょう」
公の場なら、彼女は俺を艦長と呼ぶ。
だが、二人きりになると、ときどき学校時代と同じ口調に戻った。
俺たちは海軍士官学校の同期だった。
入学した当初から親しかったわけではない。
座学の席が近く、共同課題で同じ班に入り、気づけば互いの不得意分野を補うようになっていた。
俺が艦長となり、彼女が副長に選ばれたのも、上層部がその関係を考慮した結果なのかもしれない。
「ブリーフィングで何かあった?」
ミレアが尋ねた。
「なぜ、そう思う」
「戻ってきてから、ずっと同じ頁を見ているから」
視線を落とす。
机の上には、航空騎士道法の資料が開かれていた。
確かに、先ほどから頁をめくっていない。
「ハーゼン少尉に、命令を訂正された」
「訂正?」
「名乗りには応じず、隊形を維持するよう命令した」
ミレアの眉が、わずかに上がった。
「それは反発されるでしょうね」
「知っていたのか」
「名乗りが救難や降伏の信用にも関わること?」
「ああ」
「当然でしょう」
即答だった。
胸に小さな痛みが走る。
「士官学校では、そこまで教わった記憶がない」
「教わったわ。航空法規の二年次課程で」
「そうか」
「あなたも同じ教室にいた」
言われても、航空騎士道法の講義は思い出せなかった。
代わりに浮かんだのは、同じ二年次の兵器概論だった。
前世の記憶を取り戻した、あの日の授業だ。
士官学校の教室。
分厚い兵器概論の教科書。
教師が黒板へ描いた、細長い兵器の断面図。
「自ら目標に進路を向け誘導する。
ゼアの開発した新型兵器だ。
これは国連が今規制に向けて動いているが──」
当時の俺は、その頁を開いたまま動けなくなった。
「誘導」という単語が頭に反響する。
──これはミサイルだ。
そう理解した瞬間、知らないはずの言葉と景色が、濁流のように押し寄せてきた。
その記憶の濁流に溺れ、教室の机に手をついたまま俺は自分が誰なのか分からなくなった。
「……あの日も、そういう顔をしていた」
ミレアの声で、艦長室へ引き戻された。
「あの日?」
「兵器概論の授業。誘導弾の頁を読んで、突然倒れかけた日」
彼女は覚えていた。
当然だ。
あのとき、最初に俺の肩を支えたのはミレアだった。
「医務室へ連れていこうとしたら、あなたは教科書を離そうとしなかった」
「そんなこともあったな」
「あったな、ではないわ。あの日から、あなたは変わった」
指先がわずかに強張った。
「変わった?」
「急に数学の成績が上がった。兵站の課題では、誰も教えていない計算方法を使い始めた。航空隊を撃墜数ではなく、稼働率や帰還率で評価するようになった」
ミレアは俺をまっすぐ見ていた。
「それまでのあなたは、優秀ではあったけれど、今ほど何でも知っている人ではなかった」
俺は答えられなかった。
彼女は、俺が前世を思い出したことを知らない。
だが、その境目を誰よりもよく知っている。
「その何でも知っている人が、今日は騎士道法を間違えた」
「そうなるな」
「安心した」
予想外の言葉だった。
「なぜだ」
「あなたにも、まだ知らないことがあると分かったから」
「副長として、それは不安になるところではないのか」
「何もかも知っているつもりの艦長よりは、ずっと安心できる」
ミレアは航空騎士道法の資料へ手を伸ばし、開かれていた頁を数枚戻した。
「あなたは手順だけを読んで、その背景を読み飛ばしたのね」
「おそらく」
「昔からそう。理解できると思った部分ほど、確認を省略する」
「耳が痛いな」
「そのために副長がいる」
彼女は該当箇所を指で示した。
儀礼の説明だと思って読み飛ばした数行に、救難と降伏時の扱いが明記されていた。
「命令は修正した?」
「ああ。名乗りには応じる。ただし、隊形と任務を優先するよう変更した」
「なら、今できることはしたでしょう」
「正しい判断だったと思うか」
ミレアはすぐには答えなかった。
机の反対側へ回り、俺の隣に立つ。
「分からない」
「副長でもか」
「飛ばしてみなければ分からないこともある」
彼女は冷めたコーヒーを見た。
「でも、あなたは間違いを指摘されて、命令を変えた」
「それだけだ」
「それができない艦長は多い」
慰めではなかった。
学校時代から俺を知っている彼女なりの評価だった。
正しい判断だったのかは、まだ分からない。
ならば今できるのは、彼らを無事に飛ばし、帰還まで見失わないことだけだ。
俺は机上の通信装置へ手を伸ばした。
スピーカーのスイッチに指を置く。
「声が硬いだろうか」
「かなり」
「直すべきか?」
「無理に直せば、もっと怪しくなる」
ミレアは平然と答えた。
「命令が聞き取れれば十分よ、艦長」
最後の呼び方だけが、公の場のものに戻っていた。
俺は息を吸い、スイッチを押した。
格納庫へ回線がつながる。
「時間だ」
自分の声が、わずかに震えて聞こえた。
それでも続ける。
「第一波哨戒隊、発艦せよ」
スイッチを切る。
艦長室に、再び静けさが戻った。
「悪くなかったわ」
ミレアが言った。
「かなり硬いと言わなかったか」
「硬いことと、悪いことは同じではないでしょう」
俺はようやくコーヒーへ手を伸ばした。
すでに冷めていた。




