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艦長の反省


同じころ、艦長室にもコーヒーの香りが立ち込めていた。


机の端に置いたカップからは、もう湯気がほとんど立っていない。


初めての出撃命令。


初めてのブリーフィングとは比べものにならないほど緊張していた。


自分の判断で人間を飛ばす。


自分の責任で航路を決めた。


敵と接触した場合の方針も、自分が決めた。


正しいのかは分からない。


間違っていたとしても、その結果を受けるのは俺ではなく、これから飛ぶパイロットたちだ。


「また、コーヒーを冷ましているのね」


聞き慣れた声がした。


顔を上げると、副長のミレア・クロイツ少佐が艦長室へ入ってきたところだった。


「ノックはしたわ」

「聞こえなかった」

「そうでしょうね」


ミレアは俺の向かいまで来ると、机の上のカップを見下ろした。


「昔から、考え込むと周囲の音が聞こえなくなる」

「昔の話だ」

「士官学校を卒業してから、それほど経っていないでしょう」


公の場なら、彼女は俺を艦長と呼ぶ。


だが、二人きりになると、ときどき学校時代と同じ口調に戻った。


俺たちは海軍士官学校の同期だった。


入学した当初から親しかったわけではない。


座学の席が近く、共同課題で同じ班に入り、気づけば互いの不得意分野を補うようになっていた。


俺が艦長となり、彼女が副長に選ばれたのも、上層部がその関係を考慮した結果なのかもしれない。


「ブリーフィングで何かあった?」


ミレアが尋ねた。


「なぜ、そう思う」

「戻ってきてから、ずっと同じ頁を見ているから」


視線を落とす。


机の上には、航空騎士道法の資料が開かれていた。


確かに、先ほどから頁をめくっていない。


「ハーゼン少尉に、命令を訂正された」

「訂正?」

「名乗りには応じず、隊形を維持するよう命令した」


ミレアの眉が、わずかに上がった。


「それは反発されるでしょうね」

「知っていたのか」

「名乗りが救難や降伏の信用にも関わること?」

「ああ」

「当然でしょう」


即答だった。


胸に小さな痛みが走る。


「士官学校では、そこまで教わった記憶がない」

「教わったわ。航空法規の二年次課程で」

「そうか」

「あなたも同じ教室にいた」


言われても、航空騎士道法の講義は思い出せなかった。

代わりに浮かんだのは、同じ二年次の兵器概論だった。

前世の記憶を取り戻した、あの日の授業だ。


士官学校の教室。


分厚い兵器概論の教科書。


教師が黒板へ描いた、細長い兵器の断面図。


「自ら目標に進路を向け誘導する。

ゼアの開発した新型兵器だ。

これは国連が今規制に向けて動いているが──」


当時の俺は、その頁を開いたまま動けなくなった。


「誘導」という単語が頭に反響する。

──これはミサイルだ。


そう理解した瞬間、知らないはずの言葉と景色が、濁流のように押し寄せてきた。

その記憶の濁流に溺れ、教室の机に手をついたまま俺は自分が誰なのか分からなくなった。


「……あの日も、そういう顔をしていた」


ミレアの声で、艦長室へ引き戻された。


「あの日?」

「兵器概論の授業。誘導弾の頁を読んで、突然倒れかけた日」


彼女は覚えていた。


当然だ。


あのとき、最初に俺の肩を支えたのはミレアだった。


「医務室へ連れていこうとしたら、あなたは教科書を離そうとしなかった」

「そんなこともあったな」

「あったな、ではないわ。あの日から、あなたは変わった」


指先がわずかに強張った。


「変わった?」

「急に数学の成績が上がった。兵站の課題では、誰も教えていない計算方法を使い始めた。航空隊を撃墜数ではなく、稼働率や帰還率で評価するようになった」


ミレアは俺をまっすぐ見ていた。


「それまでのあなたは、優秀ではあったけれど、今ほど何でも知っている人ではなかった」


俺は答えられなかった。


彼女は、俺が前世を思い出したことを知らない。


だが、その境目を誰よりもよく知っている。


「その何でも知っている人が、今日は騎士道法を間違えた」

「そうなるな」

「安心した」


予想外の言葉だった。


「なぜだ」

「あなたにも、まだ知らないことがあると分かったから」

「副長として、それは不安になるところではないのか」

「何もかも知っているつもりの艦長よりは、ずっと安心できる」


ミレアは航空騎士道法の資料へ手を伸ばし、開かれていた頁を数枚戻した。


「あなたは手順だけを読んで、その背景を読み飛ばしたのね」

「おそらく」

「昔からそう。理解できると思った部分ほど、確認を省略する」

「耳が痛いな」

「そのために副長がいる」


彼女は該当箇所を指で示した。


儀礼の説明だと思って読み飛ばした数行に、救難と降伏時の扱いが明記されていた。


「命令は修正した?」

「ああ。名乗りには応じる。ただし、隊形と任務を優先するよう変更した」

「なら、今できることはしたでしょう」

「正しい判断だったと思うか」


ミレアはすぐには答えなかった。


机の反対側へ回り、俺の隣に立つ。


「分からない」

「副長でもか」

「飛ばしてみなければ分からないこともある」


彼女は冷めたコーヒーを見た。


「でも、あなたは間違いを指摘されて、命令を変えた」

「それだけだ」

「それができない艦長は多い」


慰めではなかった。


学校時代から俺を知っている彼女なりの評価だった。


正しい判断だったのかは、まだ分からない。


ならば今できるのは、彼らを無事に飛ばし、帰還まで見失わないことだけだ。


俺は机上の通信装置へ手を伸ばした。


スピーカーのスイッチに指を置く。


「声が硬いだろうか」

「かなり」

「直すべきか?」

「無理に直せば、もっと怪しくなる」


ミレアは平然と答えた。


「命令が聞き取れれば十分よ、艦長」


最後の呼び方だけが、公の場のものに戻っていた。


俺は息を吸い、スイッチを押した。


格納庫へ回線がつながる。


「時間だ」


自分の声が、わずかに震えて聞こえた。


それでも続ける。


「第一波哨戒隊、発艦せよ」


スイッチを切る。


艦長室に、再び静けさが戻った。


「悪くなかったわ」


ミレアが言った。


「かなり硬いと言わなかったか」

「硬いことと、悪いことは同じではないでしょう」


俺はようやくコーヒーへ手を伸ばした。


すでに冷めていた。


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