ハーゼン=「ねこ」
ブリーフィング終了後、第一波哨戒隊が発艦する少し前。
淹れたばかりのコーヒーは、ハーゼンの舌にはまだ熱かった。
まるで、つい先ほどまで血の上っていた自分の頭のようだ。
彼は紙カップへ息を吹きかけながら、自機のそばに立っていた。
整備員たちが機体の下を行き来している。開かれた点検口へ頭を突っ込み、工具を鳴らし、燃料管や操縦翼面を確認していた。
格納庫の奥では、別の機体のエンジンが短く唸る。
発艦準備は着々と進んでいた。
「あ、噂の“ねこ”じゃないか」
聞き慣れた声がした。
「ここだけの噂だがな」
「で、そのねこさんはコーヒーを飲めていないと」
「舌まで猫舌かよ」
ハーゼンは紙カップから顔を上げた。
数人のパイロットが、こちらへ歩いてくるところだった。
「口はよく動くようだがな」
「気分はどうだ。艦長に意見具申した気分は」
どうやら、コーヒーを静かに飲ませてくれるつもりはないらしい。
「確認しただけだ」
「確認ねえ」
一人が笑った。
「ありゃ、かなり困惑してたよな」
「珍しくもないだろう。今どき“名乗り”なんて、実戦で経験したことのない士官もいる」
「だからって、騎士道法を知らない者に航空隊を預けるのか?」
別の男が、整備中の機体へ背を預けかけ、整備員に睨まれて姿勢を戻した。
「俺たちを駒としか見ていないんじゃないか」
周囲の音が、少し小さくなった。
気がしただけかもしれない。
整備兵たちが聞き耳を立てているのか。
それとも、格納庫のあちこちで同じような艦長評が始まっているのか。
ハーゼンはコーヒーをひと口飲んだ。
まだ熱い。
「駒だと思っているなら、撃墜より情報を持ち帰れとは言わないだろう」
誰かが言った。
先ほどまで艦長を批判していた男とは、別の声だった。
「だが、命令はすぐに変えた」
「普通なら面子を守って押し通すところだな」
「目がいい奴を、その場で探し出したのも意外だった」
「そうか?」
「ああ。いつもなら、誰を先行させるかなんて、ここで俺たちだけで決めてるだろ」
その言葉に、何人かが頷いた。
航空隊の事情をよく知らない艦長が、自分たちの能力を確認しようとした。
それを好意的に取るべきなのか、単に準備不足と見るべきなのか。
ハーゼンにも、まだ判断できなかった。
「撃墜ではなく、生きて帰れと言った艦長は初めてだ」
一人が、ぽつりと言った。
今度は誰も笑わなかった。
「一番槍を倒して名を上げろ、とは言わなかったな」
もし自分が艦長なら、いたたまれない空間だろう。
本人の知らないところで、部下たちが無知だ、素直だ、頼りない、意外と悪くないと、好き勝手に評価を並べている。
もっとも、艦長というものは、そうして評価される立場なのかもしれない。
「で、お前はどう思うんだ、ハーゼン」
全員の視線が集まった。
ハーゼンは答える代わりに、紙カップの中を覗いた。
黒い水面が、機体の照明をぼんやりと映している。
「知らないことは多そうだ」
「だろうな」
「だが、知らないことを隠すために、俺たちを危険へ送る人物ではないらしい」
誰かが鼻を鳴らした。
賛同なのか、疑っているのかは分からない。
「ずいぶん高評価じゃないか」
「評価はしていない」
ハーゼンは答えた。
「保留しているだけだ」
そのとき、格納庫のスピーカーへノイズが走った。
整備員たちの手が止まり、パイロットたちが一斉に顔を上げる。
『時間だ』
若い男の声だった。
わずかに硬い。
だが、ブリーフィングルームで聞いたときよりは、よく通っていた。
『第一波哨戒隊、発艦せよ』
短い命令だった。
ハーゼンは残っていたコーヒーを飲み干した。
すでに冷めていた。
それでも、艦長への評価を決めるには、まだ早い。




