出撃
発動機の始動と同時に、二重反転プロペラが回り始めた。前後二組の羽根が互いに逆方向へ回転し、甲板上の空気を激しくかき乱す。回転数が上がるにつれ、低い振動が座席から背中へ伝わってきた。
ハーゼンは操縦桿を軽く握り、計器を順に確認する。
回転数。
油圧。
燃料。
無線機。
索敵レーダー。
署名レーダー。
簡易IFF。
操縦翼面。
異常なし。
翼内の十二・七ミリ機銃四門を除けば、機体に武装は積まれていない。
白槍──対空ミサイルも、対空ロケットもない。
もっとも、今回は偵察任務だ。重い兵装を吊り下げる理由はなかった。白槍を積めるのは四発まで。
それに、扱うには従来の空戦とは別の技量が必要だった。使いたい者が使えばいい。必要な任務なら積めばいい。
今回、第一波哨戒隊で白槍を選んだ者はいなかった。敵機がいるかも定かじゃない。しかし、格納庫の弾薬庫には、六十本を超える白槍が収められているという。使う者がいない兵器ではない。まだ、使うべき任務が来ていないだけだ。
そうして身軽になっても、敵に見つかったときの心細さまで軽くなるわけではなかった。
機体の前で作業していた整備兵が、点検終了の合図を送る。ハーゼンも手を上げて応じた。
『第一波哨戒隊、発艦準備』
無線に甲板管制の声が入った。
前方の機体が誘導員の指示に従い、発艦位置へ進む。
この空母は新造艦ではない。既存艦を改装し、航空機を運用できるよう急造されたものだ。甲板は短く、幅にも余裕がない。幅は三十メートル。全長も二百メートルほどしかない。数字だけなら広く思えるが、翼を広げた機体の上から見れば、甲板は細長い板にしか見えなかった。
翼端のすぐ近くを甲板員が走り、その作業服が、別の機体から吹きつけるプロペラ風にたなびいている。一歩間違えれば海面に落ちそうだ。それでも、作業員たちの動きに迷いはなかった。
それを言うなら自分もだ。機体が数メートル横へ逸れただけで、人も機体も海へ落ちかねない。
最初の機体が出力を上げる。直後、機体が前へ弾き出された。
『一番機、発艦』
続けて二番機、三番機が発艦する。次は自分だ。やがて誘導員が、ハーゼンの機体へ腕を向けた。
「偵察一番、移動する」
ブレーキを緩める。機体がゆっくりと前進した。甲板へ出た瞬間、潮風とプロペラ風が機体を横から揺らした。発艦位置で停止する。
正面に見えるのは短い甲板と、その先に広がる海だけだった。陸上飛行場なら、滑走路を使い切っても地面が続く。ここでは違う。甲板の先には、何もない。
『偵察一番、発艦を許可する』
「了解」
出力を上げる。前後のプロペラが唸り、機体が車輪止めを押す。計器は正常。横風も許容範囲。誘導員が片膝をつき、腕を前方へ振り下ろした。車輪止めが外れる。
機体が走り出した。甲板上の白線が後方へ流れていく。速度は上がっている。だが、甲板の終端も急速に迫る。機首が艦首を越えた。一瞬、身体が座席から浮くような感覚があった。機体が沈む。海面が近づく。
ハーゼンは慌てて操縦桿を引かなかった。ここで無理に機首を上げれば、速度を失う。翼が空気をつかむまで待つ。一秒にも満たない時間。だが、海面を見下ろしている間だけは、妙に長く感じた。
沈み込みが止まる。ハーゼンはゆっくりと機首を上げた。波頭が遠ざかっていく。
「偵察一番、発艦完了」
『発艦を確認。北東へ進路を取れ』
「了解」
機体を右へ傾ける。空母の進行方向を横切り、北東へ機首を向けた。
後方では、残る哨戒機が次々と発艦している。対空ロケットを装備した機体。増槽を下げた機体。同じ型の戦闘機でも、積載物によって飛び方は少しずつ違う。
追加兵装を何も装備していないハーゼン機は軽い。出力を少し上げるだけで、本隊との距離が開き始めた。
『各機、編隊を形成』
隊長の声が無線に入る。
『偵察一番は予定どおり先行。本隊との距離十五キロを上限とする』
「了解。先行する」
巡航速度まで加速する。時速四百六十キロ。一分で七キロ以上進む。十五キロの距離など、互いに向かい合って飛べばすぐに消える。
ハーゼンは本隊を引き離しすぎないよう、後方を確認しながら速度を調整した。
空母はすでに小さい。その上空へ哨戒隊の残りが集まり、四機編隊を組み始めている。無線は正常。簡易IFFも応答状態。索敵レーダーの画面には、自分たち以外の反応はない。
もっとも、索敵距離は十五キロしかない。ハーゼンの目は、条件が良ければそのさらに十キロ先を見る。レーダーより先に見つける。それが今回、自分が立候補した理由だった。
眼下には海が広がっている。どこを見ても似た景色だ。
波。白い飛沫。雲の影。遠くに浮かぶ岩礁。
地図には北東哨戒線が描かれている。だが、当然ながら空にも海にも線は引かれていない。方位、速度、経過時間。それらを使い、自分で見えない境界をたどる。
ハーゼンは正面から視線を外した。遠方を探すとき、一点だけを見続けてはいけない。視野の端で動きを拾い、少しずつ確認範囲をずらしていく。
正面。右上方。右下方。海面。
左下方。左上方。後方。
そして再び正面。
雲の端が一瞬、機影に見えた。違う。海面の反射が黒い点に見える。これも違う。
視力が良いというのは、すべてが正しく見えるという意味ではない。ほかの者より早く異変に気づき、それが敵かどうかを判断する時間を得られるというだけだ。見つけることより、誤報しないことの方が難しい。
『偵察一番、状況を報告』
本隊の隊長から通信が入った。
「異常なし。視界良好。雲量少。索敵レーダーに反応なし」
『了解。予定航路を維持する』
通信が切れる。ハーゼンは索敵レーダーのスイッチに指を置いた。常時使い続ければ、敵からこちらの電波を探知される可能性がある。だが、切れば雲や視界外から接近する敵へ気づけない。今回は短時間だけ作動させ、目視確認を挟んで停止する手順になっている。
しかし「一番槍」がいるのなら、この目で見てみたい。結局、そのスイッチを切ることは無かった。表示面に走査線が回る。敵機の反応なし。味方機の識別信号だけが後方に表示されている。
再び目で探す。太陽は左後方にある。こちらから北東を見れば、逆光にはならない。だが、相手が南西へ飛んでいるなら、相手からはこちらが太陽に近い。先に発見するには有利。
『北東哨戒線外縁まで、残り五分』
航法担当の報告が入った。
五分。巡航速度なら約三十八キロ。敵がいなければ、外縁で反転し、第三航路から帰投する。何も見つけない。何も起こさない。それが哨戒任務の成功だ。
だが、ブリーフィングルームで一番槍の名が出たとき、何人かの顔に浮かんだのは恐怖だけではなかった。
期待。敵エースとの接触。名乗り。決闘。撃墜。
新任艦長は、その感覚を理解していなかった。ハーゼン自身も、理解できないわけではない。一番槍と遭遇したいかと聞かれれば、答えに迷う。
戦ってみたい。だが、撃墜されたくはない。その二つは矛盾しない。少なくとも、パイロットの間では。
『偵察一番、本隊との距離十二キロ』
「確認している」
後方を見る。小さな黒点が四つ。本隊は見えている。この距離なら、異常を報告してから合流まで二分とかからない。敵が正面から接近していれば、もっと短い。
ハーゼンは出力をわずかに落とした。本隊との距離を維持し、これまで以上に集中して周囲を見る。退屈な哨戒より、空戦を望む気持ちがなかったわけじゃない。




