9. 水の行き先
その水音は、三日たっても耳から出て行かない。
朝、茶を淹れながら聞こえる。庭に水を撒いていると、撒く音に重なって聞こえる。二十一層の下で、私の知らない水が動いている。知らない、という言葉が、これほど落ち着かない形をしているとは思わなかった。
金曜の夜、私は翔真を縁側に呼んだ。
「頼みがある。大瀑布の配信を、古い順に出せるか?」
「アーカイブ? 出せるよ。何年前まで?」
「三年前まで。……ただし、条件がある」
孫が顔を上げる。
まず、動かないものを決める。測量の初日に教わることだ。動かないものを一つ決めれば、あとは全部そこから測れる。動くものだけを見ていたら、何が動いたのか永遠に分からない。
「じいちゃん、観光橋の欄干とかどう? あれ、動かないよね」
「駄目だ」
「え、なんで」
「欄干は手前で、滝は奥だ。撮る人が橋の上のどこに立ったかで、手前の柱は伸びたり縮んだりする。奥の滝と、同じ物差しには乗らない」
翔真が「あー」と口を開けたまま止まった。近くのものほど大きく写る。言われてみれば当たり前の話が、当たり前として腑に落ちるまでには、いつも一拍かかる。
「物差しは、測りたいものと同じ面に置く。それが決まりだ」
「同じ面……」
「滝の落ち口だ。あの水が出てくる岩の口は、人が切ってある。上端がまっすぐで、両端に切り口の角が残っている。あそこは三年では動かん」
私は湯呑みを置き、指で画面の上をなぞった。
――人が切った口。当たり前だ。切れと書いたのは、私なのだから。
その一行は、口に出さずに飲み込む。
「じゃあ、水の幅が口の何割か、を見るってこと?」
「それだ。口を物差しにすれば、カメラの遠い近いは消える」
「じゃあ、どの配信でもいいんだね?」
「よくない」
私は首を振った。ここを飛ばすと、たいていの測量は嘘になる。
「遠い近いは消えるが、向きは消えん。斜めから撮れば、口の近い端と遠い端で、伸び方が違う。割合まで一緒に歪む。……据えっぱなしのカメラで撮った画でなければ、駄目だ」
「据えっぱなし……」
翔真が、口を尖らせて画面を睨んだ。それから急に、指の速さが変わる。
「じいちゃん。これ、どう?」
差し出された画面に、味気ない配信の枠があった。〈セブンスパーク七ツ峰 公式・大瀑布ライブ〉。観光橋の袂の柱に据えつけたカメラが、二十四時間、同じ画角で滝を映し続けている。
「動かないから、誰も見てないやつ。同接、いつも二十人くらい」
私は、しばらく黙っていた。
点検を三年止めた会社のカメラだけが、三年ぶん、同じ場所から、同じ向きで、まじめに記録を取り続けている。皮肉というには、少し、できすぎている。
「これだ。これでいい」
「メートルには直さないの?」
「直さん」
孫が、意外そうな顔をした。
「え、実寸わかるんでしょ」
「口の実寸なら覚えている。だが、映像から出した割合に実寸を掛けたら、確からしく見えるだけの数字ができあがる。それは、測ったことにならん」
「……厳しいなあ」
厳しいのではない。私は、数字を信じすぎた男の顔を一つ、知っているだけだ。
「減ったか増えたかを見るのに、実寸は要らんのだ」
条件は、それだけでは足りない。
「もう二つある。撮った時期を、毎年七月の同じ週に揃えること。それから、直前の三日に雨の降っていない回だけを残すこと」
「……なんで?」
「水は、二日遅れて山から出てくる。雨のあとの滝を今年の滝と並べたら、比べているのは滝ではなく、雨の量だ」
翔真の指が、一度止まる。それから、さっきまでとは違う速さで動き出した。
公式ライブの過去ログが、条件で削られていく。同じ据えつけの画。七月の同じ週。前三日、雨なし。
「四本、残った。じいちゃん、これでいい?」
「上等だ」
四十年前、私はこれを三脚と方眼紙でやっている。同じ場所に立ち、同じ高さにカメラを据え、向きを合わせ、日付を書いた板を画面に入れて撮る。条件を揃えるだけで、半日が終わった。あの半日を、この会社のカメラは、三年ぶん黙って肩代わりしてくれていたわけだ。
「……便利だな」
「でしょ。じいちゃん、褒めるとこ、そこでいいの?」
「そこがいちばん偉い。揃えるのが、いちばん手間なんだ」
三年前の滝が、画面に出る。
岩の口の両端に、白い水の帯を当てる。口の七割を、水が埋めていた。飛沫が照明を白く曇らせ、コメントは『マイナスイオン』『すごE』で埋まっている。
「二年前」
六割六分。右の端が、わずかに痩せている。
「去年」
六割。
「今年」
五割六分。口の左右に、乾いた岩が広く残っている。
翔真が、画面と私の顔を交互に見た。
「……減ってる?」
「減っている」
「え、これ誰も言ってないの? こんなに違うのに」
「一年ずつ見ていれば、気づかん。人は、隣の年としか比べないからな」
私は野帳を開き、四つの数を並べて書く。鉛筆の芯が、紙の上で乾いた音を立てた。七割が、五割六分。三年で、落ち口を埋める幅が二割減っている。
幅は、水の量そのものではない。落ち口の岩が欠ければ広がるし、傾けば偏る。それは分かっている。
だが、同じ口を、同じ季節に、同じ雨の条件で見て、三年続けて痩せているのだ。ここまで揃えて痩せているなら――減っていると、言い切っていい。
滝が痩せる理由なら、素人でも一つ思いつく。雨が減った、というやつだ。
だが、この三年で七ツ峰の降水量は減っていない。むしろ多い年があった。先週の百八十ミリを、私はまだ手の甲で覚えている。
山に降った水は、消えない。
どこへも消えないから、必ずどこかに居る。落ち口から出る量が減ったのなら、水は溜まっているか、別の道を見つけたかの、どちらかである。
――そして、二十一層の下で、私の図面に無い水が動いている。
鉛筆の先が、野帳の上で止まった。二つの点のあいだに線を引いてしまえば、そこから先は、私がずっと開けずにきた場所へ通じてしまう。
線は、引かなかった。
まだ、確かめていない。確かめていないことを、私は言わない。
「じいちゃん、顔が怖い」
「そうか」
「うん。仕事の顔になってる」
仕事の顔、というものが自分にあると、私は今日はじめて知った。
玄関のチャイムが鳴ったのは、そのときだ。
立っていたのは、背広の男だった。四十半ばか、それより少し上。肩に雨のあとがある。手土産らしい紙袋を胸の前で持ち直し、深く頭を下げた。
「夜分に恐れ入ります。ディグリード保安管理課の、瀬川と申します」
会社の名前が出た瞬間、翔真が私の背中に半歩寄る。
「アカウントの件でしたら、ミルカから謝罪をいただいています」
「違います。……いや、それも申し訳ないことをいたしました。ただ、今日は会社の使いではありません」
男はそこで言葉を切り、それから、少し違う声で続ける。
「公団の、保安部にいました。第四迷宮です。真柴さんの検図で、二度、命拾いした側です」
名前を呼ばれている。
烏口ではなく、真柴と。
私は立ったまま、しばらく返事ができなかった。ここ三年、私を姓で呼ぶ人間は、この家から絶えていたのである。
「……縁側でよろしければ」
麦茶と、瀬川の持ってきた羊羹を出す。翔真は気を利かせたつもりか、居間の隅で音を消して端末をいじっていた。耳だけは、たしかにこちらへ向いている。
「〈壕九〉のとき、社内で犯人探しが始まりました」
瀬川は羊羹に手をつけず、湯呑みだけを両手で包んでいる。
「情報漏洩を疑ったわけです。俺は違うと思っていました。漏れた図面を読んだ人間は、あんな書き方をしません。あれは、引いた人間の書き方です」
「買いかぶりです」
「導坑の一件で、確信しました」
瀬川が顔を上げ、まっすぐこちらを見る。
「うちの現況図に、あの通路の素性は一行も書いてありません。二十二年前の工事用だと言い切れる人は、社内に一人もいない。……真柴さん。俺は、あなたが誰かを詮索しに来たんじゃないんです。会社が答えられない質問を、持ってきただけで」
庭で、風が鳴った。夏の終わりの、少し重たい風だ。
言葉が要らない相手というのは、久しぶりである。竪坑と言えば竪坑が通じ、敷高と言えば敷高が通じる。この三年、私は言葉の半分を毎回説明してから喋っていた。説明しないで済む会話は、こんなに速いものだったか。
「瀬川さん。会社の使いでないなら、なぜ来られた?」
「残ったからです」
答えが、早い。
「公団が畳まれたとき、俺は残るほうを選びました。中から直すつもりだったんです。……八年。点検の周期が延びていくのを、ずっと見ています。設計部門が消えるのも見ました。何も、できないままで」
彼は鞄から、薄い紙の束を出して膝に置く。
表紙に、見慣れた様式があった。年次保安報告の控えである。監督局へ毎年出す、点検の実施記録の要旨。私も三十七年、あの欄に判を押してきた。
「これを、見ていただきたい」
瀬川の指が、実施状況の欄を押さえる。
私は老眼鏡をかけ直し、そこを読んだ。読んで、もう一度読む。
「第七の点検、この三年――『実施予定』のままなんです」




