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10. コメ欄の主

 実施予定。


 その四文字は、様式のいちばん狭い欄に、三年分きれいに並んでいた。同じ書体、同じ位置。誰かが毎年、去年の書類を開いて写したのだろう。


「三年、これで通ったのですか?」


「通りました」


 瀬川の声は、言い訳をしていない。


「監督局の保安室は、全国十七の迷宮を六人で見ています。書面審査です。『実施予定』と但し書きがあれば、様式は整っている。……整っている、というだけの話ですが」


 様式は整っている。


 私は、その言い方を知っていた。三十七年、いちばん嫌ってきた言い方でもある。整った書類は、整っていない現場を隠す。隠すつもりのない人間が隠してしまえるところが、恐ろしい。


「点検が三年止まると、何が起きるかご存じですか?」


「排水が詰まります」


「それは半年で起きます」


 私は麦茶の湯呑みを置く。


「三年止まると、詰まったことに、誰も気づかなくなる」


 瀬川が目を伏せた。庭の風が、また鳴る。


「真柴さん。俺は、あなたに図面を出せとは言いません。言える立場じゃない」


「言われても、出しませんよ」


「……ですよね」


 男の口の端が、はじめて少しだけ緩んだ。


      ◇


 その夜、私は物置の電球を三年ぶりに点ける。


 段ボールが二つ、隅に積んである。上の箱の側面に、油性ペンの丸い字があった。


 ――おとうさん・しごと。


 佳代の字である。私が段ボールを抱えて帰ってきたあの日、この人は何も聞かず、箱にそう書いて、物置の乾いた側へ置いてくれた。捨てるな、とも、片づけろ、とも言わずに。ただ、置き場所を決めてくれている。


 私は箱の蓋を開けた。埃が、電球の光の中でゆっくり回る。


 中身は、野帳が二十七冊と、主要図の縮小写しの束。三十七年が、これで全部だ。


 週が明けて、テレビが特集を組んだ。題は「コメ欄の主」。


 番組は烏口の書き込みを時系列で並べ、専門家が「元技術者の可能性が高い」と真顔で解説する。再現映像も作られていた。暗い部屋、モザイクのかかった後ろ姿が、キーボードを叩いている。


「これ、お父さんじゃないよね」


 千夏が身を乗り出し、画面を指す。


「背が高すぎる。それに私は、あんな椅子を持っていない」


「あと部屋暗すぎ。じいちゃん、電気つけて打つもん」


「そこは譲れんな。目が悪くなる」


「そういうとこだよ、じいちゃん」


 翔真が真顔で言い、千夏が噴き出す。三人で笑って、笑い終わったところで、娘が小さく言った。


「……そのうち、来るね。ここに」


 誰も返事をしない。テレビの中では、モザイクの誰かが今日も暗い部屋で打っている。


 同じ週、ノギスがwikiを公開した。


 題は「烏口注意事項」。散らばっていた書き込みが、層ごと、設備ごとに整理され、番号を振られて並んでいる。冒頭の五項目を、私は三度読んだ。


 一、排水系の受け持ち区画に入る前、指定の排水竪坑で水音を確かめる。音がしなければ、その系統は死んでいる(換気竪坑は対象外)。


 二、退避壕の扉は手回し。停電でも開く。回すのは右。


 三、床の金物を拾わない。基準鋲である。


 四、開かない隔壁扉は、蝶番ではなく敷居の砂を疑う。


 五、白く噴く壁の前に立たない。


 私はノギスに一行だけ送る。


「五は、『立たない』ではなく『退がる』にしてください。人は、立つなと言われても足が動きません。退がれと言われて、はじめて足が動きます」


「承知。理由も併記する」


 翌朝、五番は「白く噴く壁を見たら、退がる」に変わっていた。


 その日から、他人の配信のコメント欄に、私の知らない文字が流れ始める。


『そこ、水音チェック』『扉は右回り』『それ鋲だから置いてけ』


 誰も烏口の名前を出さない。もう、出す必要がないのだ。


 攻略の常識、という言葉が画面の隅に出ていた。三十七年、私たちが規程と呼んでいたものである。規程は守られなければただの紙で、紙は、廃止と言われれば消える。だが常識は消えない。人の口から口へ移って、勝手に歩き出す。


 私は湯呑みを両手で包んだまま、しばらく画面を見ていた。


 三年前、あの会議室で畳まれたものが、四十万人の口の中で、まだ生きている。


 週末、私は瀬川をもう一度呼んだ。


 縁側に、野帳の束と縮小写しを積む。埃は拭いてある。二十七冊の背表紙が、夕方の光の中で並んでいた。


「持って行ってください」


 瀬川が束を見て、それから私を見る。


「……これは」


「三十七年ぶんの手控えです。測量の野帳と、主要図の写し。持ち出し禁止の資料ではありません。秘密区分は、公団が畳まれたときに解かれています」


「会社の名前で、正式にお預かりします」


「いや」


 私は首を振った。


「会社に渡すと、これは営業資料になります。安全を売り文句にする紙です。……あんたに渡すなら、点検簿になる」


 瀬川の口が、少し開く。


 それから彼は膝を揃え、束の上に両手を置いて、深く頭を下げた。


「真柴さん。俺は、会社に残った側です」


 声が、震えている。


「……残った側の仕事を、させてください」


 私は答えの代わりに、いちばん上の野帳をめくって見せた。四十年前の、まだ丸い字の測点記録である。若い私の字は、いまより読みやすい。


「これ、真柴さんの字ですか?」


「二十三の年の字です。恥ずかしいから、笑わんでください」


「……笑えません」


 夕方の光が、庭の土に長く伸びている。蝉の声が、いつのまにか薄い。夏が、終わろうとしている。


 瀬川が帰ったあと、翔真がテレビをつける。夕方のニュースが天気図を映していた。


 南の海に、渦を巻いた雲の塊がひとつ。予報円が、七ツ峰のほうへ長く伸びている。


「じいちゃん、これ来るかな」


 私は画面の等圧線を目で追った。線の混み具合を読む。三十七年、雨の図はこの目で読んできた。


 梅雨の雨は、山にじわじわ沁みる雨だ。二日遅れて、静かに来る。


 これは、違う。


「――梅雨とは、桁が違う」

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