8. 三年の空白
正体探しの網が徐々に狭まる音がする。
ノギスの検証動画が公開された翌週、それは始まった。公団OBの名簿を漁る者が現れ、「烏口の正体候補」と題した一覧が出回る。十七人。私の名前も、その中にある。設計課、第七、退職三年前。三行で足りてしまう人生だ。
「お父さん。あれ、大丈夫なの?」
電話の千夏の声は、笑っていない。
「私の名前は、まだ十七分の一だ」
「十七分の一って言い方、やめて。それ、当たったときの言い訳でしょう?」
「……手厳しいな」
「昔からでしょ」
娘は昔から、こちらの逃げ道の位置を先に塞ぐ。私は受話器を持ち替え、庭のほうを見た。紫陽花はもう色を落とし、葉ばかりが濃い。
「翔真の学校に、変な話は行っていないか?」
「そっちを先に聞くのね。……いまのところ、平気」
「そうか」
「お父さん。私が聞いたのは、お父さんのことだからね」
電話を切ってからも、娘の最後の一言が耳に残っていた。
自分の名前が並ぶことは、正直、どうでもいい。三十七年、私の名前は図面の隅の小さな枠にしか無かった。その枠を読む人など、どこにもいない。いまさら読まれても困る、というだけの話である。
困るのは、孫のほうだ。
その週、あの夜の隊のリーダーから、長い私信が届く。二十六層で水に追われた六人の、笑っていた男である。
「あのとき、預言者様と呼びました。すみません。あなたが二百メートル先と書いてくれなかったら、俺は仲間の誰かを置いてくることになっていたと思います。今夜から配信を再開します。今度は、書かれた通りに歩きます」
私は「ご安全に」とだけ返す。それしか、うまく言えない。
その夜、彼らは二十一層に入った。
整備区画のいちばん奥に近い層である。人通りが少なく、古い設備が多い。彼らはまじめだった。分岐のたびに手を止め、コメント欄を確認し、書かれた通りに歩く。まじめすぎて、こちらが少し照れるほどに。
『烏口さん、この先、突き当たりですよね』
「そうです。二十一層の東端になります」
『行っていいですか?』
野帳を引き寄せる。ここは覚えている。二十一層の東の端、換気の縦の穴が一本。図面の記憶が、指より先に動いた。
「【所見】〔七-二一〕突き当たりに換気竪坑〈七-二一-竪三〉があります。開口部があり、鉄梯子で下の系統へ降りられます。非常時の避難路に使えます。根拠: 公団設計図・換気系統第三号」
言い切っている。
言い切っていい案件だった。迷宮は育つ。割れは開き、水脈は移る。だから育つものについて、私は言い切らない。だが竪坑は人が造った恒久の構造物である。コンクリートと鉄で、四十年保つように造ってある。育ちようがない。
『了解。突き当たり、行きます』
ライトが奥へ伸びる。壁が近づく。突き当たりの床に、灰色の平らな面が広がっていた。
継ぎ目のない、まっさらな面。
その周りに、ボルトの錆の跡が二列。梯子の脚が刺さっていた場所である。梯子は、ない。
『……えっと、烏口さん。穴、ないです。塞がってます』
胃が、すとんと落ちた。
落ちて、そのままどこへも戻らない。この感じを、私は知っている。二十二年前の夏、現場の電話を取った瞬間の、あの落ち方だ。
指が、動かない。
「じいちゃん」
隣で翔真が私の顔を見ていた。何も聞かず、ただ見ている。孫の膝が、私の膝に少しだけ触れている。
その温度で、指が戻った。
まず確かめる。それが手順だ。慌てて謝るのは、手順ではない。
「その面の厚みが分かる箇所はありますか? 端の立ち上がりを照らしてください」
『あ、はい。……端、ちょっと段になってます。厚み、これ五十センチくらい?』
「蓋のコンクリートです。ボルトの跡が二列見えますか?」
『見えます。二列、あります』
「梯子は撤去されています。竪坑は廃止されました。私の書き込みは、外れです」
打ちながら、三年という数字が、はっきりと形を持つ。
私が職場を出てから、この山では人の手が動いている。標識が外され、竪坑が埋められ、壕が物置になり、そのどれもが現況図に書き足されない。迷宮が育ったのではないのだ。人が変えた。そして人の変えたものは、図面の記憶では追えない。
三分で、続きを打つ。
「訂正します。〈七-二一-竪三〉は廃止済みです。私の知識は三年前が最終です。以後、所見には確度を添えます。本件の確度は、三年前の現況までです。ご迷惑をおかけしました」
叩かれる覚悟をした。預言者様が外した、と書かれる覚悟である。
流れてきたのは、違う文字だった。
『訂正はやっ』
『三分で自分から言うのすごくない?』
『むしろいま信用したわ』
『外れる可能性がある人が書いてるって、当たり前だけど大事だよな』
リーダーの声が、マイクの近くで低く笑う。
『烏口さん。俺、あんたが三分で訂正したから、次も信じますよ』
「お恥ずかしい」
『いや。当てる人より、間違いを黙らない人のほうが、俺は怖くないです』
私は老眼鏡を外し、目のあたりを押さえた。
二十二年前の私は、言い切れないことを、言い切れないまま通している。今日の私は、言い切って、外した。どちらがましなのか、いまでも分からない。
だが今日は、三分で直せた。それだけが、確かにここにある。
夜半、ノギスの集計が更新される。
「六十二の六十一。なお外れの一は、三分後に本人が訂正済みである。当集計は今後、外れと、訂正までの所要時間を併記する」
――そのあとだ。
配信のアーカイブを見返していて、私は妙な音に気づいた。
六人が機材を片付けている、雑音の隙間である。コンクリートの蓋には、規格で径五十ミリの通気孔が残される。空気の抜け道だ。
その小さな穴から、音が昇っていた。
水の音である。低く、遠く、しかし確かに、動いている水の音だ。
私は音量を上げ、目を閉じる。三十七年、坑道の音で設備の生き死にを聴き分けてきた耳が、まっすぐに答えを出した。
竪坑は、下の系統まで素通しの、音の管である。音が昇るということは、下で水が動いているということだ。
二十一層の下。あの深さに、水脈は無い。
私の図面には、無いのである。




