7. 名前のない仕事
銘板の五文字を、モグはしばらく拭き続けている。
『第七設計課。……あの、コメントの人が言ってた「私が埋め戻しました」って、これのことですか?』
答えるかどうか、私は三秒迷った。迷って、書かないことにする。名乗りは、そのうち要る日が来るだろう。今日ではない。
代わりに、一行だけ打つ。
「その銘板の下、床に基準鋲が一本入っています。〈七-一二-鋲三四〉。そこから右の坑道が、本日の道です」
『鋲、鋲……あった! 泥かぶってた!』
モグがしゃがみ、靴の先で床の泥を払う。丸い頭の金物が、泥の底から顔を出した。
『これ、四十年ずっとここにあったんですか?』
「三十九年です。私が打ちました」
『打った本人が案内してくれるんですけど』
コメント欄が笑い、そして走り出す。同接は、そのまま三千を超えた。あの日の八十二人の、三十六倍である。八十二人の坑道が、いまは三千人の坑道になっている。
十二層から十九層まで、整備区画をまっすぐ縦断する。それが今日の道行きだ。私は野帳を開き、鉛筆で行程に印を打っていく。三十七年、こうして人の歩く速さを見積もってきた手つきである。
「十二層は坑道の勾配が緩やかです。歩幅を大きくして構いません。十四層の分岐で右へ。左は換気の系統で、行き止まりです」
『了解でーす。烏口さんのナビ、優しいな』
優しいのではない。歩ける道と歩けない道を、私が知っているだけである。
「十六層に入りましたら、二百メートル先の左手をご覧ください。退避壕〈七-一六-壕四〉があります。扉は手回しです。開けて構いません」
『えっ、開けていいんですか? 勝手に開けて怒られません?』
「点検になります」
『点検になります、って言い方する人、初めて見た』
鉄の扉のハンドルは、右回り。モグの細い腕が二度空回りして、三度目で噛む。軋む音が長く響き、扉が内側へ開いた。
三千人が、退避壕の中を覗き込む。
棚に、毛布。四つ折り、角を揃えて、輪が手前を向いている。
「毛布は輪が手前です。暗闇で手を伸ばしたとき、輪の側を掴めば一度で広がります。逆に置くと、闇の中で角を探すことになります」
『……そこまで考えて置いてあるんだ』
『誰が置いたんだよ、これ?』
『補充した人がいるんだよ』
コメント欄の速度が、少しだけ落ちる。
モグが棚の隅に灯りを見つけた。手回し発電の灯りだ。ハンドルを摘まんで回すと、じじ、と鈍い音を立てて豆球が橙色に点る。
「四十回で、およそ三分持ちます。電池は要りません。停電でも、暗闇でも、腕さえあれば灯ります」
『腕さえあれば……』
『じいちゃんの設計、優しすぎん?』
モグが灯りを掲げ、ぐるりと壕の中を照らす。棚。水の缶。壁の点検票。天井の隅に、灰色の管が一本、坑道の奥へ伸びている。
私は、それを書くべきかどうか少し迷った。誰も聞いたことのない話である。誰も聞かなかった話でもある。
「天井の管をご覧ください。あれは通信の管路です。第七の坑道には、電源と光の線が、およそ二百六十キロ通っています。皆さんが見ているこの配信は、あの管の中を通って地上へ出ています」
コメント欄が、止まった。
三千人が同時に黙るというのは、妙な光景である。文字の川が堰を落としたように細くなり、それから、違う色になって戻ってくる。
『は? この配信、公団の線で流れてんの?』
『じゃあ俺ら、ずっと誰かの工事の上で遊んでたってこと?』
『四十年前の人がいなかったら、この画面ないのか?』
モグが天井を見上げたまま、しばらく黙っている。ヘッドライトの光が、灰色の管の上でゆっくり揺れる。
『……俺、この管、一回も見たことなかったです。ずっと見上げてたのに』
見えないものを作るのが、私たちの仕事だった。
排水は、詰まらなければ誰も気づかない。換気は、回っていれば誰も気づかない。壕は、使わずに済むのがいちばんいい。私たちは「何も起きない」を納めてきた。何も起きなければ、誰の目にも入らない。見えないことが、正しさの証明である。
――だから私は、この次に来たものを、しばらく理解できずにいた。
『烏口さん』
モグがカメラを自分のほうへ向ける。汗と泥で汚れた顔が、画面の真ん中に来る。
『あんたの仕事、俺ら今日まで知らなかったです。ありがとうございました』
コメント欄が、追いかけてくる。『ありがとう』『毛布の人ありがとう』『管路の人ありがとう』。礼の文字が、川になって流れていく。
私は、湯呑みを持ったまま動けなかった。
この仕事そのものに礼を言われたことが、三十七年、一度もない。事故の起きなかった年に、表彰はない。当たり前である。何も起きていないのだから。
私は、礼を言われる作法を習っていないのだ。
野帳の余白に、返事の文案を書いてみる。
――「ありがとうございます」。違う。他人行儀すぎる。
――「恐縮です」。もっと違う。
――「皆さんの安全のために」。これは、演説だ。
鉛筆で消し、また書き、また消す。紙が黒く毛羽立っていく。
「じいちゃん、まだ打たないの」
いつのまにか、翔真が隣に座っていた。
「言葉が、見つからん」
「そんなに難しい?」
「難しい。……三十七年、こういう場面が一度も無かった」
孫は少し考えて、それから、いかにも十三歳らしいことを言う。
「じゃあ、いつも言ってるやつでいいんじゃない」
佳代なら、こういうとき、なんと言っただろう。
たぶん「よかったねえ」の五文字で終わりだ。そして私は、それで足りる人間だった。あの人は、私の言葉が足りない場所に、いつも短い一言を置いてくれる。三年前の会議室から帰った夜も、湯呑みを置きながら、たった一言で終わらせた。
湯呑みの茶は、とうに冷めている。
結局、一時間かかった。打ったのは、公団と、その後の子会社の朝礼で、三十七年言い続けた挨拶である。
「ご安全に」
コメント欄が、また壊れる。『泣いた』『五文字かよ』『五文字で泣かせるな』。モグが画面の向こうで、ヘルメットの上から目のあたりを拭っていた。
その夜、ノギスの投稿が回ってくる。
「本日の逐次案内、十件。すべて現地で確認済み。累計、言い切り五十九件、的中五十九件。なお別途、検証動画を公開した」
動画の題は、「烏口の書き込みは、公刊された技術年報と一致する」。
公団の技術年報。図書館の書庫で埃をかぶっている、あの薄い冊子である。ノギスは開示請求で取り寄せた図面まで並べ、私の書き込みを一行ずつ突き合わせていた。
結論の字幕が、白く出る。
『烏口は、元・迷宮公団の関係者である』




